秘密な彼女

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「絶対に秘密だよ」 人差し指を自分の唇の前に立てて、彼女はそっと俺に言った。 「1年前まで、私は猫だったんだよ」 「はぁ!?」 「薄いグレーの縞模様に、白い靴下をはいたような足の、しっぽが長い、それはきれいな猫だったのよ」 …なんだろう、俺のことからかっているのかな。 「猫の暮らしが嫌だったわけじゃないの。ううん。とっても快適な暮らしだったわ。もちろんちゃんとおうちはあったし。だけど、私はそんなものに縛られたりなんてしない猫だったの」 彼女はどこか自慢げに話を続ける。 「人間の家族はとても心配してくれたけれど、時々お外の空気を吸いに、そしてお日様の光を浴びて優雅にお散歩していたの」 う~ん。妄想癖でもある子なのかな。 彼女とはさっきこの公園であったばかりだ。午前の講義が終わり、大学から帰る途中のことだった。 いつも通る家の近くの公園のどこからか子猫の鳴き声が聞こえたような気がして立ち寄ったところだった。 先に同じ目的の先約がこの女の子だったわけだ。 でも、こうして早1時間、公園の隅々をかき分けても子猫の影も形もない。 二人して空耳だったのだろうか。 「ねえ、知ってる? この公園には目の周りだけ白い、緑色のとってもかわいい鳥がくるのよ」 「ああ、それはメジロだよ。この公園には椿の木があるから、花の蜜を求めてくるんだろう」 そう、この公園のことはよく知っている。俺の飼い猫だったミーコを探しによく来ていたんだ。 ミーコは雌猫の割にはよく脱走する子だった。 その度に、俺は必死になって近所を探し回ったが、ミーコはいつでも自分の力で家に帰ってきた。 1年前の春。ちょうど今頃のことだ。その日も脱走したミーコを探し回っていた。 脱走したその日に帰らなくても、3日もすれば何事もなかったような顔でリビングの窓の下で“にゃお~ん”と俺たち家族を呼んだ。 だが、1年前のあの日にいなくなってから、1週間、2週間、1ヶ月と、姿を見せることなく、こうして1年が過ぎてしまった。 普段から家を空ける習慣がある子だったから、どこか別のもっとおいしいご飯がもらえる家の子としてやっているのかとも考えたが、猫は自分の死期を悟って姿を消すとも言われている。とにかくもうミーコはもどってこないとあきらめかけながら、どうしても猫の姿を目で追ってしまう日常だった。 「どうする? これだけ探しても見つからないんじゃ、ここにはいないだろう?」 「うーん。気のせいだったのかしら」 春日和だとは言え、まだ風は冷たい。 「じゃー、俺はこれで」 「えっ? お兄さんの家にいっちゃダメなの?」 「は?」 「だって、私行く場所ないのよ」 行く場所がないという割には身なりはきちんとしている。女の子だし、浮浪者とは思えない。 制服姿ではないけれど、年端は17、18歳といったところだろうか。 「だめ? どうして? ご家族に邪魔にされるかしら?」 いや、俺の家族は今、赴任中の父について母も海外に行っている。兄弟もいないし、今は自由気ままな一人暮らしなのだが。 「いや、君とはさっき会ったばかりだし、俺は男なんだよ」 「うん。女の子には見えないよ」 そうじゃなくて…。 「おうちの方も心配してるだろう?」 「だって、決まった家はないもの」 って、さっき言ってた猫の話じゃないんだから。 どうしよう。警察連れて行った方がいいのかなぁ。でも、迷子っていう年じゃないし。どうなるんだろう。 って。なんなんだ、そのうるうるした訴えるような目は! 「どうしてもダメ?」 「うっ。一日だけなら…」 と、俺の断れない性格が顔を出した。 「ねえ、宏夢(ヒロム)。このおやつ何? おいしいねぇ」 「何って、普通のチョコレートだよ」 「うわっ。このお水苦いねぇ。なんで?」 「なんでって、俺の飲みかけのコーヒー…」 彼女は信じられないくらいに物事を知らなかった。 「って、未だに君の名前を教えてもらってないんだけど」 「うーん。宏夢の好きな名前でいいよ」 「オレの好きなって。そういうわけにも」 そういえば、彼女に俺はいつ名のったのだろう。気が動転してて記憶がとんだのか? 「あっ、じゃあ、このお姉さんと同じ名前にする。このお姉さんかわいい」 今テレビに出ている司会のアナウンサーを指さしそんなことを言う。 もう何でもいいか。 「じゃあ、えっと莉奈(リナ)。おかんが置いて行ったパジャマで悪いけど、風呂入って着替えたらもう休んだら?」 「えー、お風呂キライ。耳に水入る~」 そんな、本当に猫みたいなことを言う。 「宏夢はお風呂長いし、歌うたうよね」 って、想像の話なんだろうけど、なんで当たってるんだよ。 「いいから早く風呂入って寝てくれ」 「は~い。覗かないでね」 「覗くか、バカ!」 はぁ…。なんだかどっと疲れ。疲れるが、気がつくとこんな毎日が続いてしまっていた。 何とかしてこいつの家族を見つけないとな。 その前に着替えも必要か。 そうしてショッピング街を莉奈と二人で歩いているところだった。 考え事をしていたせいか、一人の女性とぶつかってしまった。 「あっ、すみません」 「!!!」 と女性、50歳くらいの方だろうかは、俺の隣を見て驚いた顔をするなり泣き出してしまった。 「すみません、どこか怪我でも?」 「杏美(アズミ)! どうして…」 泣き出した女性は、莉奈のことを杏美と呼んだ。 「杏美、お母さんよ。どうして… 元気になったの? それならどうして帰ってこなかったの? 探してたのよ」 「お母さん?」 「そうよ、お母さんでしょう。会えてよかった。一緒に帰りましょう」 そう言って女性は莉奈の腕を掴んだが。 「いや、離して! 私は宏夢と帰るの」 莉奈は女性の手を振り払って走っていった。 莉奈はこの女性の娘さんなのか? 家出をしたってことか? 事情が知りたい俺は母親だと思われるこの女性に電話番号を記したメモを渡し、莉奈の後を追った。 後日の電話で、莉奈の名前は内藤杏美ということが分かった。電話先の相手は莉奈の(杏美というべきか)母親だった。 杏美は1年ほど前に道に倒れていた猫を助けようとして事故にあい、意識をなくしたまま病院に入院していた。 そんな杏美が突然病室から消えたのが1週間前、ちょうど俺と会った時だ。 杏美、というか俺にとっては莉奈だけど、に聞いてもまるで返答がない。 記憶障害でも起こしているのだろうか? 自分のことを“猫”だったと言っていたし。 「莉奈、どうして帰りたくないんだい? お母さん、とてもいい人じゃないか」 「どうして? 宏夢は私と一緒にいたくないの?」 「そうじゃないけど。お母さん、心配してるじゃないか」 「違う! お母さんじゃない」 「莉奈、君の本当の名前は内藤杏美さんなんだよ。見ず知らずの俺なんかと一緒にいるわけにはいかないよ」 莉奈は大きな瞳をうるわせながら、俺を見つめて言った。 「宏夢… 分からない?」 「えっ、何が?」 「私、宏夢のことだったらなんだって知ってるのに。どうしてだか分からない?」 確かに不思議だった。莉奈はずっと前から俺のことを知っているような感じでいつも話すし、事実俺の生活習慣や癖などもよく知っていた。 「宏夢、私、ミーコだよ」 「また、何言ってるんだよ」 「ミーコなの。猫のミーコ」 「あの日お姉さんが事故に会う前、バイクにぶつかって動けずにいたの」 莉奈は真剣な表情で語りだした。 「すごく怖かった。あの場所で寝てたら今度はもっと大きな車に轢かれると思うとすごく怖くて。でも動く力も出なかった」 なんだ。莉奈は何を言ってるんだろう。 「もうあの猫の身体ではダメだった。そんな時、私を助けようとしてくれたお姉さんも事故にあって、彼女は意識を失ったの」 莉奈が俺のミーコだって? またいつもの妄想だろ? 「私は猫の身体から離れて、お姉さんの身体の中に入っていった」 「1年経ってやっと動けるようになったの。どうしてもあのまま死にたくなかった。宏夢に会いに行きたかった」 「だから、こうして人間になって宏夢に会いに来たんだよ」 確かに、ミーコだったら俺のことをよく見て知っているだろう。 だからって、こんな話、信じられない。 「宏夢、こうして話ができてとっても嬉しいよ」 本当、信じられない。と思いつつも、俺の目からは涙が流れ落ちてくる。 ミーコ、莉奈がミーコだって!? 「私は宏夢の猫として生きられて幸せだったよ。宏夢、大好き」 「ミーコ、俺も大好きだよ」 パニックになった俺の頭の中では、もう莉奈は猫のミーコになっていた。 ああ、でも。 「このままずっと一緒に宏夢といたい。でも… きっとダメだよね」 俺は涙をぬぐいながら言った。 「ああ。この人間の身体はミーコを助けてくれた杏美さんのものだ。ちゃんと返してあげないとな」 「そうだよね。宏夢。さようなら。ありがとう」 そう言って、ミーコは気を失うようにしてその場に倒れた。 俺はタクシーで内藤さんの家に娘さんを送り届けた。 “絶対に秘密だよ” そうだ。人間の姿をしたミーコとのこの数日間は、俺たち二人だけの絶対の秘密の話。
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