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 彼女の言葉を思い起こすことになった最初のきっかけは、一九九〇年、私が三六歳になったときのことだ。この年、中東でイラクがクウェートへ侵攻し、翌年には湾岸戦争が起こった。  現地会社の苦労は既に述べた通りだ。事実上、本社からの指揮統制をほとんど受けずにやってこられたのも、日本国内の不動産事業を主力とする極皇商事が、国内の販路をほとんど持っていないためだった。  一九九〇年というのは、その現地子会社が、バグダッドに事務所を開設し、販路も少しずつ中近東や北アフリカエリアに拡大してきた頃であった。  事件は財政収支の悪化を隣国クウェートの石油事業で穴埋めしようとしたイラクのフセイン大統領が、軍を動かしたことがきっかけだった。  クウェート自体は小国で、数日でイラクの占領下に入ることになった。この際、軍が動いたため、主要幹線道路が一時封鎖されることになった。そのため、イラク南部のバスラ港で陸揚げした荷物を、バグダッドやテヘラン、さらにはアゼルバイジャンなどへ輸送するルートが一時的に絶たれることになった。  しかしそれは一時的なもので、クウェートがイラクの占領下に置かれると、封鎖も解除されて物流は復活した。  ただ、もちろんご存じのように、それだけでは済まされなかった。翌年、アメリカとイギリスが中心になった多国籍軍がクウェート解放のために軍を動かしたのである。  イラクの南側に位置するサウジアラビア側から、英米仏を中心とする多国籍軍がイラクおよびクウェート領内へと侵攻していった。  現地会社は遠くは中国から主にインドネシアやインドから食料品や日用雑貨を買い付けて船便でバスラ港へ送り、そこから陸路で北上して運ぶというルートを通った。  そのペルシャ湾を、米軍にしっかり押さえられてしまうことになり、私たちの荷物は完全に止まることになった。  私はサウジアラビアの米軍司令部などにも赴いて、民需用に荷物の輸送許可を取ろうと腐心したものの、軍事活動中ということで全く認められなかった。バスラに到着する前の荷物は、紅海からスエズ運河などから運び入れる手配はできたものの、既にバスラに陸揚げした荷物はしばらく動かすことはできなかった。  「人生はままならないもの」。それまですっかり忘れていた赤木さんの言葉をこのとき思い出したことを今でははっきりと覚えている。当初は誰が言っていたのか、思い出せなかった。しかし、時を待つということを覚え、実際にそう行動することができるようになったのは、このときからであった。とはいえ幸いなことに、このときのこの問題はその程度で済んだのではあったが。 江島優次郞 極皇商事元社長
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