3 渇望

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『心と同じく身も凍てつき、1人死んでいくのだ』  あの大いなる声が言った言葉が蘇る。    嫌だ。  どうしてだ。  どうして俺は誰も愛してくれなかった。  あの優しい腕に1度抱かれてみたい。  何もしなくても微笑みかけて欲しい。  柔らかな声で呼んで欲しい。  もっと…  もっと愛が欲しかった。  母に甘えたくて教師の言う事を必死に覚えた。  父に褒めて欲しくて手に鞭が飛んできてもピアノを弾き続けた。  誰よりも強くなれと言われ、豆が潰れ皮が剥けても剣を握り続けた。  その日の夕食はナイフとフォークが持てなかった。  うまく扱えず取り落せば咎められ、食事は下げられた。  何をしても、どれほど努力を重ねても、「当たり前」と言われ誰も褒めなかった。    愛などどこにあると言うのか。  幼き日に心を捨てておいてよかった。  あれから楽しいと思うことは皆無だが、心が痛むと言うことは無くなった。    無くなったはずなのだ。  だから生まれて間もない赤子ごときに嫉妬することなど何もない。    なのに、どうして、今これほど渇望する。  眠れぬ夜は久々だった。  心を捨てるまではうまく眠ることが出来なかった。  疲れ果て眠っても、夜中に恐ろしい夢で目が覚めてしまうのだ。  泣いたところで誰か来るわけでもない。  あの赤子のように添い寝をしてくれるものなど誰もいなかった。    寒い。  どうしようもなく寒い。  寝室の暖炉の火は落ちかけている。  談話室の暖炉は出来るだけ火を落とさないようにさせている。  暖炉にあたっても無意味なことは分かっているが、それでも揺れる炎を眺めたかった。  談話室へ向かうと、隙間の開いた扉から女の声が聞こえた。  この柔らかな声はマリアだ。  少しだけ扉を押しやり、隙間から中を伺った。  彼女は湯上りなのか髪を下ろし暖炉の前で櫛を入れていた。  赤子の「あう」と言う声が聞こえたと言うことは、まだ寝ついていないのだろう。 「あうあう、今日はねんねが遅いのね。もう少し待ってね。髪を乾かしてしまうから」 「あう」 「ソレット、あなたはママがいなくてもいい子ね。あなたのママはどうしてるのかしらね。ずっと離れていて寂しくないかしらね」 「この赤子はお前の子ではないのか」  誰もいないと思った部屋に主の声が響き、マリアは驚きで櫛を落としてしまった。  本来ならこんなところで髪を梳いていていいものではない。  使用人は使用人の部屋に引っ込むべきだ。  だが暖炉のない使用人部屋では、真冬の行水で冷えきった体を温めることは難しかった。  火の落ちないこの部屋で、主が寝てからこっそり体を温め、髪を乾かし、それから寝ようと思っていた。
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