3 渇望

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「旦那様、申し訳ございません。すぐに部屋に戻ります」 「聞いているのだ。その赤子はお前の子ではないのか」  よく見れば夜着の女は震えている。  まだ乾ききらない髪を背中に落とし、唇は紫だ。  湯上りで暖炉の前にいるのになぜ? 「嘘をついておりました。この子は私の子ではありません」 「乳が出ないのもそういう訳か」 「はい」 「どうして雪の中他人の赤子を連れ歩いた。もしや誘拐か? 城のメイドと言うのも嘘か?」 「違います! 城では主に西館の担当をしておりました。この子は…この子はあるお方に託されました。詳細は存じません。たださる尊いご身分の方に届けよと、そう言われました」  あるお方も、さる尊いご身分の方も気にならないわけではない。  だが今ゲイルの一番の感心はそこではない。  何故見知らぬ赤子に無償の愛を注げるのか。 「何故だ。何故自分の子ですらないのにそんなに大事にできる。何故身を犠牲にしてまで守ろうとする」 「赤子は1人では生きられません。私が託されたのだから私が傍にいなければ死んでしまいます」 「お前に責任があるのか?」 「なくても、赤子を見殺しにはできません」 「そんな身を粉にして…手はボロボロ、ここに来た時は足も血だらけだったではないか。嫌がらせのように地下室に押し込められ…人生を無駄にしてると思わないのか?」 「実母から離されているというのに、時々笑うんです。それが可愛くて、幸せで。幸せは人生の無駄ではございません」 「理解できん」  どうしてだ。  どうして無心に愛せる。  見返りのない奉仕などあるわけがない。  体を襲う冷気が増した。  内側が尋常じゃないほど寒い。  いつしかゲイルは何も感じないはずの心の声を叫んでいた。 「どうして赤の他人が言葉も通じぬ赤子などに愛を注ぐ! 俺にはただの1度も与えられたことが無かったというのに!」  突然激昂した主を、マリアは驚くわけでもなく哀しい目で見ていた。    ああ、この人は愛をどこかに忘れてきてしまったんだ。  愛を感じたことのない心だから、愛する事も愛される事もわからなくなってしまったんだ。  屋敷が冷たく感じるのも、あなた様がそうして寒さを感じるのも、全てその愛を欲するが故なのでしょうか。 「俺が……愛が欲しいだと?」  ゲイルの心は完全に無くなったわけではなかった。  その残った心で増幅させたのは、愛ではなく怒りと哀しみ、そして愛への憧れだったのかもしれない。  彼の心はもう手遅れなほど冷え切っていた。 「赤子のように無償の愛が欲しいというのか…」  赤子はゲイルが声を荒らげたというのに眠っていた。  憎らしいほど静かに、幸せに寝ている。  全てはマリアのお陰というのか?  彼女が無償の愛を注ぐから幸せに見えるのか。
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