3 渇望

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「誰に届けるはずだったのだ」  マリアは答えてよいものか迷った。  うかつに出していい名ではないはずだ。 「先方も待っているのだろう。誰に届けるのだ」 「ユーゴ・ウェンティア公爵閣下です」 「俺に…?」 「ゲイル様?」 「ふ…そうか。そういうことか」  主の中では何か合点がいったらしい。  彼はうすら寒い笑みを浮かべると、ソファに身を沈めた。 「わかったぞ…あの声…この赤子は神の御使いということか。俺の残りの心を全て取りに来たあの日の神か」 「ゲイル様…?」 「ゲイルは別邸での仮の名だ。本名はユーゴ・ウェンティア。お前が赤子を届けようとしたのは俺だ。ふっ…神よ、どういうつもりだ」  彼は自嘲するように笑うと、籠の赤子を見た。  そしてそのまま己の過去を話し始める。 「俺は子供の頃に心を捨てた。神に頼み、喜びもいらないから悲しみも消してくれと」 「そんな…」  生まれた時からユーゴへの両親、つまり王と王妃の期待は異様に高かった。  それまで3人赤子が流れてしまい、国王夫妻は絶望の淵にいた。  王妃はまともな子を成せない女と陰口を言われ、赤子が流れた悲しみよりも世継ぎを生まなければならない重圧に追い詰められていた。  国王も同じく世継ぎのプレッシャーはあったが、それは産まなければならない女よりも遥かに軽いものだろう。  そろそろ側室を考えた方が良いかもしれない。  そう思った矢先に出来たのがユーゴ。  彼はまだ言葉もままならぬうちから、失った3人分を補うかのように猛烈な勉強を叩き込まれた。  母はこの時既におかしくなっていた。  ユーゴは完全に世継ぎの道具として見られ、全てにおいて完璧を求められた。  父は国王としての才覚はあったが、親としてはそうでもなかったらしい。  立派な世継ぎさえあればそれで良いとでもいうように、ユーゴの成長は興味を持たなかった。  ただし勉学が出来ないことに関しては責められた。  教師もまた完璧を求められ、身に着けるべき教養は全て鬼のような指導だった。  間違えれば鞭で殴るのは当たりまえ。  マナーがなっていなければ食事を取り上げられることもしばしばあった。  幼い心が壊れるのは早かった。  彼は逃げ出したくても逃げ出せないその状況に、神に祈った。 「ぼくの心をなくしてください」  少年が願うには、あまりに悲痛な内容だった。  だが神は彼の願いを叶える。  ほんの一部を残し、心を取り上げた。  残った一部がどうなったかは、大人になった彼を見ればわかるだろう。  苦汁を舐めて成長した彼は、立太子の時に本当の絶望を味わう。  全ての教養において完璧に育ったユーゴを、父王は恐れたのだ。  政治的手腕もある。強気の外交は一見すれば国の利益になるかもしれない。  だがそこに温度の通ったものは一切なかった。  例えば誰かが罪を犯した時、彼には情状酌量などという言葉が通じなかったのだ。  心を取り上げた神が懸念したことが、現実のものとなった。  父王はユーゴに王位を与えず、立太子したのは5歳年下の弟だった。  ユーゴの残った心が、久々に悲鳴を上げたのは言うまでもない。  弟のゼファーはユーゴとは一転、母の愛を受けて育っている。  実は産前から重圧で苦しんだ母は、ユーゴの産後に精神を病んでいた。  しかし弟を身ごもる頃になるとそれも嘘のように回復し、生まれたあとは実に穏やかな子育てをしていた。    そのまま壊れかけたユーゴにも愛を注げばよかったものを、既にユーゴは誰にも心を開かなくなっていた。  つい生まれたばかりの弟ばかりを可愛がり、そして事態は悪化するだけだった。  立太子出来なかった彼は、いつしか名を変え別邸に引きこもるようになった。
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