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3 渇望
「あうあ」
「あうあうー。おしゃべりじょうずね」
「うーうーうー」
「うんうん。うーうーだねー」
赤子と母の間では当たりまえかもしれないやり取りを、ゲイルは不思議な目で見ていた。
言葉など成立しておらず、一体何を会話しているというのか。
マリアは満面の笑みで赤子の「あ」と「う」に返事していた。
「それになんの意味があるのだ」
「旦那様っ」
誰もいない談話室を掃除していたマリアは、ソレットが何かを話し始めたのを聞いてはたきを置いた。
暖炉の傍に置いたソレットの入る籠に行くと、ご機嫌でお喋りをする赤子を構い始める。
まさかそこに主が来るとは思わず、突然話しかけられた彼女はびっくりして振り向いた。
ゲイルはよく談話室のソファにいることが多い。
彼女は部屋を使うのかと思い急いでソレットの籠を持った。
「失礼いたしました。何かご入用でしたらお持ちいたしますが」
「いい。気にするな」
初対面の時に比べていくらか柔和な態度になったゲイルは、まだ「あうあう」言っている赤子の籠を見た。
「すぐに出て行きますので」
「気にするなと言った。お前は何を赤子と話していたのだ」
「話をしていたわけではございません。声を出しているのが可愛くて、私が赤子の真似をしていただけでございます」
「声を出すのが可愛いのか」
「赤子は最初は泣くことしか出来ません。それが声を出すようになったのです。私にはその成長が可愛く思えました」
成長はするのが当たり前でその当たり前の現象が可愛いと言うのか。
ゲイルには全くその発想はなく、マリアの言うことが理解できなかった。
赤子は籠の中で「うううーっ」と言いながら蠢いている。
「“ううう”はどういう意味だ」
「“ううう”は“ううう”です。でもきっと今は抱っこをして欲しいんだと思います」
籠の中の赤子を覗く。
ついさっきまで機嫌よく話していたらしいが、もぞもぞと動き顔がしわしわになっていた。
これが抱っこで治まるのだろうか。
「許す。赤子を抱いてみろ」
「ありがとうございます」
マリアは籠を置くと、おくるみごとソレットを胸に抱いた。
ゲイルと会話をする時は固い彼女の表情が、赤子を抱いた途端に柔らかな笑みになった。
ただ腕の中に収まっただけであの笑みを向けられるとは、赤子はどんな特権を持っているのか。
赤子を抱き軽く背中を叩いてやると、あのしわしわだった顔は元の表情に戻りまた「あうあう」言い始めた。
彼女は右手の甲でそっと赤子の頬を撫でた。
「なぜ甲なのだ」
「私の指先は荒れております。赤子の肌が傷つけば可哀相です」
自分では何もできない小さな生き物は、ただそこに存在しているだけで無償の愛を向けられるようだった。
解せぬ。
ゲイルの胸を、またあの冷えた感覚が吹き抜けた。
近頃少し範囲が広がった気がする。
胸だけでなく、背中まで広がっていくようだった。
彼は思わず片手で自分を抱くように腕を掴んだ。
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