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「旦那様? またお寒いのですか? 何かご病気なのでしょうか」
「お前には関係ない」
「差し出がましくて申し訳ございません。……何か上着をお持ちしましょうか」
「いらぬ。そんなものに意味はない」
そう言うと彼は暖炉の一番傍のソファに腰を降ろした。
マリアはふと、雪の中でも赤子を抱いた胸だけは温かかったことを思い出す。
主も赤子を抱いたら温かいだろうか。
「旦那様…」
「なんだまだいたのか」
「この子を抱いてみませんか?」
「赤子などいらん」
「無理にお勧めするわけではございませんが、私は赤子を抱くと幸せな気持ちになります。それに赤子は体温が高くて、冷たい地下でも寄り添えばあったかいんです」
「…地下?」
「はい。地下にお部屋を頂きました」
「使用人の部屋は余っているのに?」
「分かりません。そのお部屋を頂いたので」
二人して不思議な顔をする。
間で赤子だけ変わらず「あうー」と声を出していた。
「ずっと今まで地下で過ごしていたのか? この寒さで?」
「雪と風を凌げるだけありがたいかと…」
この屋敷に使用人はほとんどいない。
ここは別邸なので元々多くは雇っていない。
前はもう少し多かったが、どういうわけか次々辞めてしまった。
つまり使用人の部屋は十分すぎるほどある。
何故ベスは地下など与えたのか。
何故そんなぞんざいな扱いを。
いや、最初にぞんざいな扱いをしたのは自分だったような気がする。
この「あ」と「う」しか言えない赤子と、足の擦り切れた女を雪の中放り出した。
「言っておく。今日からまともな部屋を使え」
「ありがとうございます。この子が風邪を引いたらどうしようかとずっと思っていたのでこれで安心しました」
マリアが心底ほっとしたような顔をする。
自分より赤子なのだな。
そんなに赤子は尊いものなのか。
ふと赤子に興味が沸いた。
「どうやって抱くのだ」
「旦那様……。腕を…大きなかぼちゃを片手で抱くようにして頂けますか」
「こうか?」
「はい。そこに赤子を乗せますね。右手はこうです」
ゲイルが構えた腕に赤子をそっと乗せると、赤子が驚かないようにすぐには手を離さず背中を支えた。
それから彼女がそっと腕を抜いたが、ソレットは相変わらず「あうー」の練習をしていた。
「温かいでしょう?」
マリアは何が嬉しいのか、赤子にだけ向けていた笑顔をゲイルに向けた。
至近距離にいる彼女の笑みが、体を蝕んでいた寒さを一息で払ったようだった。
「温かい…」
赤子ではなく、マリアの笑みが。
赤子を抱いた瞬間ではない。彼女の笑みを見た瞬間だ。
赤子よ。
お前が羨ましい。
なぜ俺には1人も、あんな笑みを向けてくれる人間がいなかったのか。
温かいと言ったゲイルの表情が、すぐに曇ったのをマリアは見た。
「旦那様…? やはりご不快でしたか?」
マリアは差し出された赤子を受け取る。
なぜ主は急に浮かない顔になったのだろう。
「もう下がれ」
理由はわからなかったが、マリアはもう下がる他なかった。
少しだけ温度が通った気がしたのに、また室内に冷気が漂うような気がした。
その日からゲイルは何かと赤子の様子を観察した。
正確には、赤子を世話するマリアの様子を。
赤子はマリア以外誰も世話をする人間がいないので、彼女はメイドの仕事をしながらいつも籠に入れ連れ歩いている。
掃除をする時は埃を被らないように籠の持ち手から薄布をかけてやり、作業の合間にむずがると抱き上げてあやす。
相変わらず乳は出ないようで、腹が減った時は厩舎の家屋に駆け込んでいるようだった。
おしめを取り換えるとまたあの笑みであやす。
籠の中で「あうー」と言えば彼女も「あうー」と返事をし、眠ると額に柔らかなキスを落とすのだ。
母の愛情と言うのは、誰しもこういうものなのだろうか。
自分はどうだったろうか。
寒い。
また寒くなって来た。
胸から背中に広がり、腹の方まで落ちてくる。
指先が氷になってしまう気がして、思わず手をすり合わせた。
窓に映った自分はまるで神にでも祈るような姿をしていた。
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