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――その夜。僕は学校の制服のまま、居間のテーブルに着き、家族三人で食事をとっていた。
「なあ、望、お前、なにをやらかしたんだ? 怒らないから正直に話してごらんなさい」
父親は、母親の顔をちらっと見てから、僕にそう問いかけた。
「いや、別に、何も――」
「そんなわけがないだろう! 警官が聞き込みに来たっていうじゃないか」
父親は、普段は温厚そうに見えていても沸点が低い。その質問の答えを間違えたなら最後、自分の聞きたい答えが返ってくるまで僕に問いかけ続ける。
「いや、でも、僕は何も――」
「だから、何もなかったようには見えなかったと母さんも言っているぞ! 正直に話せば怒らないから、ちゃんと話せ!」
しばらく、そんな会話が続いた後――
「だから、本当に何も――」
僕がそう言った直後、ブチ切れた父親は、手にしていた茶碗をテーブルに叩きつけ、それと同時に、手に持っていた箸を僕に投げつけてきた。
「――だから、本当に何も!」
僕は必死になってそう答えていたが、時すでに遅し、父親は立ち上がり、僕を椅子から引きずり下ろすと、僕の顔面に向けて握り拳を思い切り叩きつけてきた。
「いい加減にしろよ、このクソガキが!」
そういいながら、僕を殴り、そして、蹴る。容赦はない。手加減もない。
そして――救いもない。母親はその場から逃げるように、夕飯を片付け、割れた茶碗を片付け、汚れた食器を洗い始めていた。
「――だから、だから、僕の言うことを、聞いて――」
「人が優しくいってやってるのに! このクソガキが! お前なんて、いなくなっちまえ! さっさと死んでしまえ!」
これが、父親の、逆上していて出た単なる罵言雑減でも、本音でも、なんでもいい。
ただ、ただ、僕の、話を、聞いて――欲しい。それだけ。他には何も望まない。
――体中が痛い。どうやら、僕は、まだ生きているようだ。カーテンの隙間からわずかに太陽の光が差し込んでいるのが見える。鳥の鳴き声も聞こえる気がする。凍えるような寒さだと思えば、僕は、制服のまま居間の窓際に転がっているようだ。どうりで寒いわけだ。
僕は自分の状態を確認する――骨は折れていないはず。頭は必死で守っていたから内出血もないだろう……たぶん。身を丸めていたから臓器なんかも大丈夫、だと思いたい。
まだ、親は起きてこない――学校には、行きたくない。僕の存在価値とは、いったいなんなのだろう。
――不意に、僕は、『アレ』と同じ場所に逝くことを考えてしまう。僕の生きていることへのつらさは、『アレ』と同じように、誰かに何かを理解して、分かってほしいがために、あのような存在になることを、望んでしまうのだ。だが、それも悪くないのかもしれない――いや、どう考えても悪いだろう。
僕は、いつの間にか、そのままの格好で家を飛び出していた。僕の心の中では、自らの死をもって、この、ゴミのような人生に終止符を打ってしまいたいという気持ちと、それに抗う気持ちが互いにぶつかり合っている。そんな僕の気持ちは、いつも以上に前向き、それでいて後ろ向き。死は、終わりではない、始まりなのだ。新たなる世界への旅立ちなのだ――だが、そこで今以上の苦悩を強いられるかもしれない。
今日は『アレ』も心なしか笑顔に見える。僕の門出を祝ってくれているようにすら思える。そうか、僕は、もっと早く、向こう側へ行くべきだったんだ。彼らは、僕にとって、唯一の味方、だったんだ。そう思うと、本当に気持ちが楽になる。まるで、心の暗雲を取り除き、その雲間から光芒が差し込む、そんな晴れやかな気持ちだ。向こう側はどんな世界なのだろう――? すぐにまた、僕の心に暗雲が立ち込め、向こう側では『アレ』と同じ存在として堕ちるだけなのだという現実に恐れおののく。
そうした考えを巡らせながら寒空の下を無我夢中で走っていると、急にそれがとてつもなく不安な気持ちへと変わっていくのだった。僕は結局、『アレ』にはなりたくないという気持ちだけが大きく勝るのだ。そうして我に返った僕は、複雑な心境になりながらも来た道を引き返し、自分の家にとぼとぼと向かい始めた。
ふと気が付けば、事件があったという雑木林の小道に差し掛かっていた。そういえば、あの日、僕はなぜか、放課後の帰り道、商店街を抜け、この雑木林の小道を通った。それも、無意識に。今思えば、僕はあの時、殺害されたという雲永 餡子を助けられたのかもしれない。いや、一緒に殺されていたかもしれない。だとしても、あの日、あの時、なぜ、僕は異変に気が付かなかったのだろう。そんな僕に、言いようのない不安定な感情があふれ出してきた――それと同時に、僕の足は雑木林の小道に向く。
その小道は人が通れるように整備され、積もった雪もしっかりと除去されていたが、いくつかの獣道のようなものがあり、それらの獣道は雪深く人の足跡もまばらだった。そうした中、小道と同じように雪が除去され、人の足跡が幾多もついている獣道があった。きっと、これが犯行現場に繋がる獣道、なのだろう。興味本位、いや、違う、何かに惹かれるようにして、僕はその道に入っていく。一歩一歩、ぬかるんだその地面を踏みしめてゆっくりと進んでいく。
やがて、少し開けた場所に出る――すると、『アレ』が佇んでいる。一体だけではない、まるで、僕を歓迎するかのように、数えきれないほどの人影が、僕の周りを這いずり回る。
「死にとうない……死にとうない……」「いやじゃ、いやじゃ」「助けて」「生きたい」「苦しいよ」「熱いよ」「寒いよ」「殺したい」
数えきれないほどの声が、僕の頭の中にこだまする。いや、厳密には、そう聞こえてくるように感じているだけで、実際には違うのかもしれない。
「僕は――」
そう呟いた後で僕は、このまま彼らに貪られ、その魂ごと無へと帰すのだろうかと考える。覚悟はできて――いない。僕は――僕はまだ――『アレ』に喰われるわけにはいかない。
「僕は――まだ――」
僕は、そっと目を瞑り、この悪夢の終わりを待った――
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