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蟹の忘年会
△
「蟹を食べに行こうか?」
恋人の六月(むつき)がそんなことを言った。
「蟹?」
「蟹」
六月は小さく笑った。年上の恋人は時折りこんなふうに、すごく柔らかく笑う。
こんな顔をされたら、断れるわけがない。
「俺が奢るよ」
しかも奢ってくれるという。
「いいの?」
六月は頷いた。
「忘年会しよう。2人だけで」
2人だけ。なんて言われたら断れるわけがない。
そもそも蟹は大好物だし。
六月は薄情そうな唇をした、割と綺麗な顔の男である。
俺の高校の先輩であり。
俺の同居人であり。
俺の恋人である。
一緒に住むようになって数年。不安な時もあったけど、なんだかんだ平和に暮らしている。
俺たちの住む田舎街では、同性が恋愛して一緒に暮らすのは珍しい。
好奇の視線に晒されてちょっと居心地悪い時もあるけど、もう慣れた気もする。
何より六月と一緒にいられるのは心地よい。
つまり幸せなのだ。
それにしてもなぜ急に「蟹を食べに行こう」なんて言い出したんだろう。
年末年始に悪だくみでもしているのだろうか。そのための罠かな。
それとも、この前の会社の忘年会でイヤなことでもあったのだろうか?
◎
先週末、会社の忘年会があった。
例年、なんやかんや理由をつけて欠席していた。今年も先輩の道端さんと一緒に欠席する予定だったのだ。
道端さんは子育で忙しい、俺は単純に行きたくない。
忘年会なんて結局愚痴大会だし。
しかし直属の上司、堀米さんのひと言で出席せねばならなくなった。
「今年は2人に幹事を頼むよ」
幹事なんて絶対にイヤだが「今年やれば、しばらくは休めるよ」
と道端さんが言うのでしぶしぶ引き受けた。
我々は適当なイタリアンの居酒屋で適当なコースを手配し、当日は同じ車で行く事にした。
こうすればどちらかが帰る時に「私も同じ車で来たので失礼します」と一緒に帰れる。幹事と言いつつササっと一次会だけで退散するつもりだった。
2時間半のコースがなんとか終わった。
サラダとかピザとかパスタを取り分けるのは面倒だったので、『イタリアン定食コース』なるものを頼みあとは適当に飲み放題で誤魔化した。
「そろそろお開きです」
道端さんが淡々と言うと、出席者の半数くらいが『え〜』と驚いた。
『え〜』と言わなかった、もう半数は俺たちと同じくとっとと帰りたいに違いない。
「もう終わり?」
「2時間半コースしか空いて無かったんですよ」
「飲み足りないよ。二次会は?」
「子供が寂しがってると思うので、私はそろそろ帰らないと。すいませんが2次会は各自でお願いします」
「幹事失格だよ」
普段は大人しくしてるおじさん達も、酔っ払っているせいか威勢がいい。飲酒で気が大きくなるやつは嫌いだ。トイレに閉じ込めてやろうか。
「橘は来るんだろう?」
俺の名前が出ても安心だ。
「今日は道端さんの車で来たんですよ。一緒に帰らないと行けないんで僕も失礼します」
「お前、いい加減にしろよ」
罵詈雑言が飛んでも、俺と道端さんは粛々とお会計を済ませてお開きの準備をする。おじさん達も渋々帰り支度を始めた。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
道端さんがそう言って席を立ったので、俺が大人しく待っていると、珍しく酔っ払っている堀米さんが近づいてきてすぐ目の前に座った。
「幹事ご苦労様」
「ありがとうございます」
いつも優しい堀米さんの労いに、いやいやながらも幹事を務めてよかったな。なんて思っていた。
「正直、ちょっとやりかたがひどいと思う。君達は早く帰りたいんだろうけど、せっかくみんなでゆっくり飲めるチャンスなのに、こんなに短くては他の人に気の毒だろう。少し自分勝手じゃないかな」
驚いた。
こんな風に説教されたことは今までなかった。
「自分勝手な性格は仕事上も問題になるからちゃんと治した方がいい。今後結婚して家庭を持った時に、奥さんやお子さんにも苦労かけるよ」
堀米さんは、今務めている会社に入ってから、ずっと直属の上司だった。
中途採用で慣れない営業の仕事を続けられたのも、温厚な性格の堀米さんのおかげだった。
『そういう性格は仕事上も問題になるから、ちゃんとした方がいい』
堀米さんは、みつきと俺が一緒に暮らしていることはもちろん知っている。いつでも優しい堀米さんがその話だけは避けている事もはっきりわかっていた。
考え方は人それぞれだし、ましてやこんな田舎だから同性の恋愛に偏見を持っていても仕方ない。
そう思っていたのに。
『今後結婚して家庭を持った時に、奥さんやお子さんにも苦労かけるよ』
その言葉は今の自分を否定されてるような気がした。
「お待たせ、じゃあ帰ろっか。堀米さん失礼します」
「お疲れ様」
トイレから帰ってきた道端さんの車に乗った後も、俺はしばらくぼんやりしていた。
「どうしたの?大丈夫?」
「はい」
「やっぱりだるかったね。会社の飲み会なんて、もう出たくないわ」
「本当にそうですね」
それから数日経っても、俺はあの時の言葉をどう処理していいかわからなかった。
酔っ払った勢いで適当に言っただけなのか。
酔っ払った勢いで「以前から思ってたこと」を言ったのか。
どちらにせよ、頭の中でぐるぐるとあの言葉がまわっていた。
こんな事ぐらいで傷つきたくないのに。
そう考えて、はじめて自分が傷ついていることに気がついたのだ。
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