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夜中レナートから襲われるのではという不安は、春己の杞憂に終わった。
どうやらレナートは春己の動揺を感じ取っているらしく、スキンシップが極端に減ったのだ。目が合えば微笑むくらいはするが、距離を詰めてこようとしない。春己の気持ちを尊重してくれているのだと分かり、少しだけ申し訳ない気持ちが湧いた。
春己は朝食の準備をしながら、「今日は買い物に行くぞ」とレナートへ伝えた。
レナートは彼の世界から荷物を持ってきており、着替えや食料などの日用品が入っているが、さすがに異世界丸出しの格好をさせるわけにはいかない。食器や歯磨きなどの足りないものもあるので、それらを一通り揃える必要がある。
春己は実家の両親から仕送りをもらっているが、今年の夏休みにアルバイトに励んだため、少々の蓄えならある。自分も異世界ではレナート達に世話になっていただろうから、借りを返す意味も含んでいた。
レナートへスウェットとカーゴパンツ、ブルゾンを貸す。やはり裾が足りなかったが、オシャレだと思えばそう見えないこともない。靴はサイズが小さすぎたため、レナートが身につけてきたブーツを履いてもらった。結果として足りない裾の部分が隠れたため、結果オーライだ。
レナートの要望で、先にロケット型の遊具がある公園へ向かった。今日も子ども達が歓声を上げながら遊んでいる。レナートが手を振りながらその輪へ入ると、すぐに子ども達に囲まれた。
春己は園内にあるベンチへ腰を下ろした。携帯電話でゲームの情報を拾いながら、時折レナートを盗み見る。
子ども達と無邪気に遊ぶレナートからは、王族の威厳などまるで感じない。もしかしたらアイツ、保育士の仕事が向いてるのかも。春己がぼんやりと考えていると、レナートと目が合った。あどけなかった表情が、溢れんばかりの愛を含んだ笑顔へ変わる。
春己がどうリアクションすべきか悩んでいるうちに、レナートは顔を逸らした。冷たいと思われただろうか。
春己は嘆息し、空を見上げた。俺、本当にアイツと付き合ってたのかな。レナートを疑うわけではないし、これまでに見た夢の数々から考えても事実なのだと思う。だが、気持ちが付いてこない。そもそも、春己は異性愛者だと自認しているので、男と交際をする未来など妄想すらしたことがないのだ。
ぼんやりと考え事をしているうちに、レナートが「待たせてすまない」と春己の元へ駆け寄ってきた。彼の後ろから、昨日レナートと最後に話をしていた少女が走ってくるのが見える。
「レナート、うしろ」
「え?」レナートは背後を確認し、すぐにしゃがんだ。少女と目線を合わせ、「どうしたんだい?」と優しく尋ねる。
「レナート、おひっこししたの?」
春己がレナートをアパートへ連れて行ってしまったため、少女は心配していたのだろう。レナートが「話すのが遅くなってしまってごめんね」と詫びる。
「僕は今、恋人の家に泊まらせてもらっているんだ」
「せりな、コイビトしってるよ。せりなのパパとママみたいなやつ。じゃあ、レナートはねるときさむくない?」
「うん。すごく暖かいよ」
少女が「よかった!」と顔をほころばせる。
「ママにレナートのこと言ったら、『かわいそう』って。でももうレナートは『かわいそう』じゃないね」
「そうだね。幸せだよってママに伝えてもらえるかな?」
「わかった!」
後方から、友達とおぼしき子どもが「せりなちゃーん!」と呼ぶ。せりなはそちらへ向かおうとして、体を反転させた。
「レナート、またいっしょにあそべる?」
「うん。時間があるときはここへ来るから、一緒に遊ぼう」
せりなが満面の笑みを浮かべ、友人のもとへ戻っていく。レナートは手を振りながら見送り、「どこの世界も、子どもが宝物であることは変わりないね」と紡いだ。
「レナートって子ども好きなんだな」
「春己は?」
「俺は……どっちでもないかな。子どもと触れあう機会自体が少ねぇし。けど――」
無邪気なレナートを見るのは好きかもと言いかけて、春己は慌てて口を噤んだ。なんでこんなセリフが思いつくんだ。レナートに触発されたのか?
言葉の先を待っているレナートへ「なんでもねぇよ」と言い、春己はベンチから立ち上がった。
春己とレナートは駅へ向かい、電車に乗った。レナートは見るものすべてが新鮮なためか、ひっきりなしに視線を動かしている。だが人前ではしゃぐのは恥ずかしいのか、落ち着いている素振りを見せながら、時折春己に「あれは何?」と質問をした。
目的地はショッピングセンターだ。レナートは複合施設の外観をしげしげと見つめ、宮殿のようだと感想を漏らした。彼は入場する際に身分証の提示が必須だと思っていたらしく、春己が訂正すると、「国民が平等でいられる国なのか……」と感慨深そうに言った。
春己達が最初に足を運んだのは、低価格なカジュアル衣料品の店だ。レナートに頼まれたので、春己が何点か見繕ってやる。
試着室から出てきたレナートは、まるでどこかのモデルのようだった。身につけている服は春己と似たようなものなのに、高級ブランドを纏っているかのような気品が漂っている。春己が「似合ってるよ」と褒めると、レナートは「春己のセンスが良いからだね」と微笑した。
ショッピングセンター内に入っているドラッグストアで必要なものを買い、店内をぶらつく。レナートが興味を見せたので、キッチンやダイニングなどの生活雑貨を取り扱う店舗へ入った。
レナートが目を留めたのは、可愛らしい猫の顔が描かれたマグカップだった。縁の部分が猫の耳のようにぴょこっとしており、カラーによって表情が異なっている。レナートから無言の圧力を感じたので、春己は自分のぶんも手に取った。レナートは黄色でジト目の猫、春己は青色で笑顔の猫を購入する。
昼が近くなったので、ラーメン屋で食事を取る。レナートは箸の使い方に試行錯誤していたが、店員からフォークを借りて事なきを得た。魚介ダシの利いた醤油ラーメンがよほど気に入ったのか、レナートは店を出てからというもの、「さっきのラーメンは本当に美味しかった」と繰り返していた。
レナートと並んで歩いていると、女性客の視線を痛いほどに感じる。髪の色が目立っているのもあるだろうが、端麗で優雅な容姿が一番の理由だろう。先ほどすれ違った女児など、「王子さまだ……」とぽかんとした顔をしていた始末だ。
クレープ屋の前を通りがかると、レナートが春己の袖を引いた。レナートはイチゴカスタードチョコ、春己はバナナブラウニーのクレープを買い、近くのベンチに座って食べる。レナートは「こちらの世界に来たら絶対に食べたいと思っていたんだ」と目を輝かせ、嬉しそうにクレープへかじりついた。
夕方になり、二人は電車で帰途についた。春己はショッピングバッグを持ちながら、隣に座るレナートの幸せそうな顔を見て、今日の出来事は彼にとって特別な体験だったのかもしれないと思った。
最寄り駅で降り、帰り道を歩く。レナートが「とても楽しかった」と歩調を浮つかせた。
「春己と一緒にまたこんな時間を過ごせるなんて、夢みたいだな」
「俺がそっちの世界に行ったときも、一緒に買い物とかしたのか?」
「うん。大きな市場に行ったり街の露店を見て回ったり……それも楽しかったけれど、今日の体験は特別だったな」
レナートが足を止め、「ありがとう」と春己を見つめてくる。
「もしかしたら君は負担に感じているかもしれないけれど……僕はこの世界で君とともに過ごせて、言葉には出来ないくらいに嬉しいんだ」
「負担になんか思ってねぇよ。誰かと一緒に遊びに行くとかってあんまりしないから、俺も楽しかったし」
「……良かった」
レナートがふわりと表情を綻ばせる。そのまま顔が近付いてきたので、春己は思わず体を硬直させた。レナートが一瞬だけ切なげな表情をし、「帰ろうか」と歩き始める。何度目かの罪悪感を飲み下し、春己はレナートの背を追った。
アパートの敷地へ入ると、大家の吉田明彦がタバコを吸っていた。どうやら電子タバコらしく、独特の臭いは漂ってこない。
「お帰り」と言った明彦へ、レナートが丁寧な挨拶をする。春己は止めようとしたが間に合わず、レナートが寝泊まりしていることがバレてしまった。
「うちのアパート、同居NGなんだけど」
春己は「ですよね……」と項垂れ、レナートの素性を隠したまま、彼は身寄りがないのだと説明をした。明彦は同情するような顔で聞き入り、春己が話し終えると、レナートへ目を向けた。
「レナート、ちょっと斜めを向いてくれるか? 視線は少し上に」
訝しそうな顔をしながらも、レナートが明彦の指示に従う。明彦はレナートを穴が空くほど見つめ、「いいな」と小さく呟いた。
「レナート。俺の事務所で雑用兼モデルとして働く気はないか? もしこの提案を受け入れるなら、同居の件は見過ごしてやる」
「モデルとは何ですか?」
「綺麗なメイクして格好いい服着て、写真をバンバン撮られる仕事」
レナートの顔にクエスチョンマークが浮かんだので、春己は「肖像画とかを描くとき、本人を見ながら描くだろ? あれの本人側みたいなやつだよ」と補足をした。レナートは即座に「やります」と力強く言う。
「交渉成立だな」明彦はジャケットの内ポケットから名刺を取り出し、レナートへ渡した。「明日の朝九時にここへ来てくれ。俺の車で事務所へ行く」
レナートが名刺を丁寧に受け取る。まだ肝心な部分を聞いていないことに気づき、春己は明彦の名前を呼んだ。
「大家さんって、何の仕事をしてるんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ。メイクアップアーティストだよ」
レナートは携帯電話を持っていないため、代わりに春己が明彦と連絡先を交換した。明日レナートは明彦とともに事務所へ行き、そこで仕事の詳細と契約事項についての説明がなされるという。レナートが納得すれば、その場で契約書を交わすそうだ。
明彦と別れ、春己達は自宅へ戻った。荷物を片付け、帰りがてらスーパーで購入した弁当を食べる。一息ついたところで、春己は『レナートがモデルとしての仕事をするに当たって必要そうな知識』を教えた。レナートが真剣な顔で聞き、時折メモを取る。
「細かいとこを突かれるとボロが出るから、『実は記憶喪失なんです』って言っておくといいかもな。間違っても『異世界から来た』って言うなよ」
「わかった。気に入ってもらえるように頑張るよ」
他の職員から聞かれそうな質問などの回答も共有し、会議を終了する。風呂を沸かして春己が先に入り、レナートと交代した。
体が火照った状態のまま、春己はベッドへ倒れ込んだ。ひんやりとしたシーツの冷たさが心地よい。
ふと脳裏に、レナートが今日の帰り際に見せた顔がよぎった。
もし春己がレナートの立場だったら、この状況をどう思うだろう。恋人に逢うために異世界へやってきたのに、相手が何も覚えていなかったら――たぶん、めちゃくちゃしんどい。
レナートは春己を気遣ってくれているが、それは彼が優しいからだ。本当はもっと色々やりたいことがあるだろうに、春己の気持ちを優先し、我慢してくれている。レナートとの思い出話一つ出来ない春己を、咎めずにいてくれる。
レナートのこと、ちゃんと考えなきゃな。春己はベッドの上で大の字になり、天井を見つめた。いっそ智也に相談しようかと悩んでいると、新しい部屋着に身を包んだレナートが居室へ出てくる。
「お風呂は僕の世界にもあったけれど、個人の家に付いているのはすごいね。無料で使えるなんて信じられないよ」
「日本人は風呂好きだからな。……レナート、ちょっと話してもいいか?」
「もちろん」
レナートが床へ座ろうとしたので、春己はベッドに起き上がり、隣をポンポンと叩いた。
「こっち座ってくれ」
「あ……うん」
しまった、ベッドは意味深だったか。春己は自分のミスに気付いたが、すでにレナートが腰を下ろしてしまったため、発言を撤回するのはやめた。
「ちゃんと謝ってなかったなって思ってさ。悪い。レナートのこと覚えてなくて」
「気にしなくていいよ。むしろ、記憶がないにもかかわらず僕を追い出さずにいてくれて、感謝してるんだよ」
「けどさ、レナートは俺と付き合ってたんだろ? 俺は恋愛経験が全然ないからよくわかんねぇけど、手をつないだりなんか色々したり、したいだろホントは。それなのに……出来なくてごめん」
「君が謝る必要はないよ。……と言っても、春己は気にするんだろうね」
レナートは少しの間悩むような素振りを見せ、「提案があるのだけど」とわずかに距離を詰めてきた。
「春己は、僕が色々我慢をしていることに罪悪感を抱いているんだよね。でも僕は罪悪感なんか感じて欲しくない。だから、お互いに譲歩すればいいと思うんだ」
「たとえば?」
「抱きしめるのとキスだけ許して欲しい。それ以上のことは絶対にしないと誓うよ。……どうかな?」
レナートがやりたいことの一部を春己へ行い、春己がそれを受け入れる。そうすれば、レナートの欲求は少しは満たされるだろうし、春己の罪悪感も減るだろう。良案に思えたが、一つだけ改善点が欲しい。
「……口以外のキスなら」
「わかった。さっそくなんだけど、今抱きしめてもいいかな」
「……ドウゾ」
「じゃあ春己、僕のほうへ来て」
レナートが両腕を広げる。春己はつばを飲み込んだあと、ぎこちない動きでレナートの胸に納まった。恥ずかしい気持ちが湧き出し、みぞおちのあたりがムズムズする。だがレナートの手が優しく春己の髪を撫でると、緊張が一気に吹き飛んでいった。
「春己、嫌な気分になっていない?」
「大丈夫」
むしろ気持ちいい――などとは口が裂けても言えない。気持ちが落ち着き、幸福感で満たされていく。レナートの記憶は無いけれど、体が彼の温度を覚えているのだろうか。
もしかしたら、こうしていればいつかレナートのことを思い出すかもしれない。春己は目を閉じ、体重をレナートへ預けた。
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