第1話

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3    これは夢だ。春己は空中であぐらを()きながらそう悟った。  いつものイケメンが出てくる夢だ。周囲は色とりどりの花で埋め尽くされていて、甘い花の香りが満ちている。どうやらどこかの庭園のようだ。  もう一人の自分が、イケメンとベンチに並んで座っている。イケメンが春己の耳元で何かを(ささや)き、春己がくすぐったそうに笑った。  二人はしばらく会話を楽しんでいたが、やがて庭園の中を散歩し始めた。花々を眺めながらも会話を続けている。  春己は宙を泳ぎ、二人へ近付いた。そこで初めて、これまでと違う部分に気付く。二人の言葉がわかるのだ。 「春己は花は好きかい?」 「どうだろ。今まではあんまり興味なかったけど……でも、ここは綺麗だと思う。レナートは?」 「大好きだよ。特にここに咲く花は、君の笑顔のように明るくて温かいから」  聞き覚えのある名前に、春己は宙で固まった。やっぱり、昨夜の不審者とこのイケメンは同一人物なんだ。  どういうことなのだろうと考えようとしたが、夢の中のせいか思考が上手く動かない。仕方なく、春己は二人のあとを付いていった。  鮮やかなバラや優雅なチューリップ、小さな野花が風に揺れている。イケメン――レナートともう一人の自分は歩調を合わせ、花を眺めては楽しそうに会話をし、時折じゃれ合っていた。  レナートの声は穏やかで、優しさに満ちていた。もう一人の春己もレナートへ好感を抱いているようで、その言動から安心しきっていることがわかる。  庭園を一周し終え、春己が「楽しかったな」と笑う。レナートは微笑(ほほえ)みを返したあと、そっと春己を抱きしめた。レナートのほうが身長が高いため、彼の肩口に春己の顔が埋まる。 「レナート?」と春己が慌てた声を上げる。レナートは春己の後頭部を優しく()で、「少し、風が冷たいから」と(つむ)いだ。 「こうしていると暖かいだろう?」 「そりゃそうだけど……誰かに見られるかも」 「誰に? ここには僕と君しかいないよ」  レナートの甘い声に、春己が息を詰まらせる。空中にいる春己も、恥ずかしさのあまり両手で顔を(おお)った。駄目だ、これ以上見ていられない。 「春己」  レナートが火照(ほて)ったような声で名前を呼ぶ。予感がして、春己は指の間から二人を見た。  レナートが手の甲でもう一人の春己の頬へ触れ、その手をなで下ろす。春己はレナートをじっと見つめ、ゆっくりと目を閉じた。  やばい、これはキスする。絶対にキスする。なぜか宙にいる春己がぎゅっと目を(つむ)ったとき、視界が白に染まった。    携帯電話のアラームを止め、春己は布団の中へ潜り込んだ。何だアレ、とシーツを握る。 あんなの、めっちゃ付き合ってるみたいじゃん。俺もキス待ちしてるし、え、ってことはキスし慣れてる? いやでも、昨夜キスされたのが影響してあんな夢を見たのかもしれない。  ていうか、そうだ、俺アイツにキスされたんだった――昨夜のアクシデントを思い出し、春己は勢いよく身を起こした。周囲を見渡し、ベッドの下やクローゼット、トイレ、洗面所、浴室、キッチンと、家中を見て回る。不審者がいないことを確認し終えると、安堵(あんど)からか力が抜けた。  部屋の中が薄暗いことを思い出し、カーテンと窓を開ける。ふう、と我知らずため息を漏らしたところで、視界の端に映っている銀色に気付いた。  道路の真ん中で、レナートがひらひらと手を振っている。彼としっかりと目が合ってしまい、春己はあわてて窓を閉めた。  なんであんなところにいるんだよ。もしかして、俺の家の場所を知ってて、俺が窓を開けるのを待ってたのか? さあ、と頭から血が下がり、軽く目眩がする。怖い。めちゃくちゃ怖い。  春己は学校へ行くための準備をしながらも、気が気でなかった。ドアを開けた先にアイツがいたらどうしよう――胃が締め付けられ、ドアノブを握ることすらためらってしまう。  その場で深呼吸をしていると、携帯電話が鳴った。智也からの着信だ。 「おはよー春己。もう出ないと学校遅れるよ。寝坊?」 「……智也、いま俺んちの玄関の前にいる?」 「いるけど?」 「変なヤツいない? 銀色の髪で、白いマント着てるヤツ」  智也は周囲を見回しているのか、「だーいじょーぶ」とゆっくり言った。「安全は確保したから、早く出ておいで」  春己はゆっくりと息を吸い、倍の速度で吐いてからドアを開けた。智也の顔を見るなり、緊張が一気にゆるむ。  駅へ向かう道すがら、春己は昨夜の出来事をもう一度智也へ話した。今朝のことも伝え、「どう思う?」と意見を求める。 「レナートっていうイケメンは、間違いなく春己に会いに来たんだと思うよ」 「でも俺、アイツに会ったことねぇし。あんなド派手な格好してるヤツ、一回会ったら絶対に忘れねぇって」 「でも、向こうは春己のこと知ってたわけでしょ? 人違いって可能性もあるけど、さすがに至近距離で見たら気付くはずだし……」  智也は数秒考え込む素振りを見せ、「わかった!」右手の人差し指を立てた。 「やっぱり人違いだったのかも。アパートの外に居たのは、春己に謝りたかったからじゃない?」 「なんで俺の家知ってるんだよ」 「さあ。本人に聞いてみれば?」 「怖いからやだ」  智也の説はあながち当たっているのかもしれない。一晩経ち、人違いに気付いたレナートが謝罪に来たと考えれば、彼がアパートの近くに居たことも納得がいく。 「もしまた会ったら、ちゃんと話してみなよ。あ、人通りが多いところとか、お店の中とかでね」 「……わかった」  春己としても、レナートの目的が判然としないうちは恐怖がつきまとう。人違いであれば、奪われたファーストキスについては目を(つむ)ろう。万が一ストーカーだったら、すぐさま警察へ駆け込めばいい。  智也と別れたあと、春己は脳内で何度もシミュレーションしながら学校へ向かった。    春己がゲームのプログラマーになりたいと思ったのは、高校二年生の夏だ。それまでは一介(いつかい)のゲーム好きに過ぎず、作り手に回りたいなどとは考えたこともなかった。  それは、ミンミンゼミが朝から鳴いている、やけに暑い日だった。春己は午前中に近所のホビーショップへ行き、中古品のゲームソフトを物色した。両親は共働きだったため、スーパーで昼食を買い――気付いたら夕方だった。  居眠りをしていたわけではない。道路に突っ立ったまま、いつの間にか昼から夕方へと変わっていたのだ。手に持っていたはずのビニール袋はなくなり、代わりに右手に見覚えのない指輪が()まっていた。ひどい喪失感に襲われ、その場で泣き崩れたのを鮮明に(おぼ)えている。  このことは、智也はおろか家族にも話していない。余計な心配をかけたくなかったし、なにより春己自身が信じられていないからだ。  喪失感はいまだに春己の心に残っていたが、その感情の正体はわかっていない。ただ一つたしかなのは、その体験のあと、以前には無かったチャレンジ精神が芽生えた。「ゲームを遊ぶのではなく作りたい」と考えるようになり、その気持ちを両親や担任教師に伝えた際、ずいぶんと驚かれたものだ。  もし春己が以前レナートと会っているのだとすれば、何時間も道端に立ち尽くしていたあの日以外あり得ない。もしかすると、彼は春己が思い出せていない数時間の出来事を知る、唯一の人物の可能性もある。  春己は自席へ着き、いつものように準備をしながら、「いや、人違いって話で落ち着いただろ」と自分に言い聞かせた。いま集中すべきなのはゲーム制作だ。不審者へリソースを割く余裕などない。春己は思考を無理矢理切り替え、ノートパソコンを開いた。    学校での作業を終え、春己は帰途(きと)についた。最近外食が続いていたので、簡単な自炊をするために駅前のスーパーへ寄る。  食材を買い込み外へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。乾いた冷たい風に首をすくませながら歩を進めていると、突然「春己!」と呼ばれた。  視界の前方にあるコンビニの前で、レナートがこちらへ向かって大きく手を振っている。ここで会うのは予想外だったが、人通りの多い歩道ならば安心だ。春己はシミュレーション内容を瞬時に確認し、レナートへ近付いた。  頼むから人違いだったと言ってくれ。そう願いながら、春己が「あの」と言いかけたところで、レナートが「昨夜はすまなかった」と頭を下げた。 「君の気持ちも考えずに先走ってしまった。本当にすまない」 「えーっと……人違いだった、とかじゃなくて?」 「昨夜もそう言っていたね。それを確認したかったのだけれど……春己」レナートがこちらに詰め寄る。「もしかして、僕の世界に来たことを忘れてしまっている?」 『僕の世界』という言葉に、春己の脳内で記憶のピースがカチリと()まった。あの日あの場所で、何時間も突っ立っていたにもかかわらず、記憶の一切が無くなっている理由。レナートとは初対面のはずなのに、彼が春己を知っている理由。もしこの思いつきが当たっているのだとしたら、すべての謎に答えが出てしまう。 「もしかして」春己は右手の甲をレナートへ向けた。「この指輪って、あんたからもらったものなのか?」  予想どおり、レナートはすぐさま「そうだよ」とうなずき、顔をほころばせた。 「身につけてくれているんだ。嬉しいな」  当たっていた。当たってしまっていた。あり得ないことのはずなのに、なぜか春己の頭は理解してしまっている。  レナートと向き合うのが耐えられなくなり、春己は逃げるようにしてその場から駆け出した。何かを叫ぶレナートの声が遠ざかっていく。  息が上がり、心臓が限界を訴えるように鳴り響く。「なんで?」という疑問と、「知ったら駄目だ」という拒否反応が頭の中を支配する。  自分が自分でなくなってしまったような感覚を振り払うように、春己はひたすらに逃げ続けた。
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