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4
帰宅してからというもの、春己は極力レナートのことを考えないように努めた。冷蔵庫に残っていた缶ビールを取り出し、やりかけのアクションRPGゲームを進めるうち、徐々に心が落ち着いていく。
シャワーを浴びて髪を乾かしている最中、右手の指輪は捨てるべきだと何度も思った。だがいざ外そうとすると躊躇いが生じ、結局そのままにしてしまっている。
翌朝も、窓を開けたらレナートが外に立っていて、春己を見るなり笑顔で手を振ってきた。レナートへの恐怖心はなくなったものの、関わりたくはない。学校帰りの駅前にも彼は姿を現したが、春己は無視を決め込んだ。
これでいい。俺が無視し続ければ、きっとそのうち諦めるはずだ。
落ち込んだレナートの顔が脳裏にチラつきながら迎えた土曜日の朝。レナートは、とうとう窓の外に現れなかった。
春己は「良かったー」と思わず声に出し、食料の買い出しに行くべく準備を整えた。少し緊張しながら玄関のドアを開ける。よし、いない。
買い物メモを脳内で作りながら歩いていると、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきた。レナートと初めて出会った公園から響いているようだ。
公園の前を通る際、春己はふと園内へ目を向けた。目に飛び込んできたのは、朝日にきらめく独特の形の遊具だった。底の部分が広がったロケットのような形をしており、子どもたちが滑り台やはしごで遊んでいる。
春己は思わず「え?」と声を上げそうになった。水色を帯びた銀糸の髪が見えたからだ。レナートは子どもたちと一緒に滑り台を上り下りしており、そのたびに子どもたちの歓声が起こっていた。
帰ったんじゃなかったのか――春己は落胆しながらも、無邪気に遊んでいるレナートの姿を見るうちに、警戒心が緩んでいくのがわかった。
スーパーでの買い物を済ませた春己は、帰りがてら再び公園を覗いた。正午に近い時間のせいか、子ども達が一斉に帰ろうとしている。一人の少女が、遊具の上で体育座りをしているレナートへ「帰らないの?」と尋ねた。
「僕の家は、ここからとても遠い場所にあるんだ。帰ろうと思えば帰れるんだけれど……まだ諦めたくなくてね」
「あしたもいっしょにあそべる?」
「うん。ここに居るから、いつでもおいで」
「わかった。じゃあねレナート。バイバイ」
子ども達がレナートへ手を振り、公園を出て行く。とたんに、それまで賑やかだった園内が静まり返った。レナートが膝へ顔を埋める。
もしかして、彼はずっとこの公園にいるのだろうか。昼間はそれなりに暖かいが、夜になれば防寒具の一つくらいは必要になるだろう。
春己はレナートを見つめ、嘆息をしてから遊具へ近寄った。滑り台の下から声をかける。
レナートが勢いよく顔を上げた。春己と目が合うと、今見ているものが幻覚かどうかをたしかめるかのように瞬きをする。
「春己? どうしてここに……」
「買い物の途中で見かけたから。あのさ、夜はちゃんとどっか泊まってるんだよな?」
「ここで過ごさせてもらっているよ。野宿には慣れているから」
どうやら、レナートは少なくともこの公園内で三日間野宿をしているようだ。間違いなく、近いうちに近隣住民に通報されるだろう。
レナートが帰らないのは、間違いなく春己が理由だ。このまま放置すれば、警察から連絡が来るのは必至だろう。
春己は首を手でこすり、「あー」と唸ったあと、遊具に座ったままの男を見上げた。
「俺んち来る?」
春己の家に入るなり、レナートは興味津々とばかりに隅々を見て回った。水道をひねって「水がこんな簡単に手に入るなんて!」と驚き、冷蔵庫を開けて「冷たい風が吹いてる!」と楽しそうだ。
レナートがクローゼットに手を伸ばしたところで、春己は「ストップ」と彼の動きを封じた。シャワーを浴びてこいと命じ、浴室へ放り込む。
洗濯は明日する予定だったが、レナートの服も増えたので今やってしまおう。春己が洗濯機のスイッチを押したとき、素っ裸のレナートが浴室から出てきた。
「すまない、使い方がまるでわからない」
春己はシャワーの使い方を教えようとして、それ以前の問題だと気付いた。逐一説明するのも面倒くさかったので、浴室へ一緒に入ってレナートの頭を洗う。体は本人に洗わせたあと、シャワーで泡を流し、春己の新品の下着と部屋着を貸した。どう見ても裾が足りていないが、パンツ姿よりはマシだと見過ごす。ドライヤーくらいは自分で出来るだろうと思ったが、火傷しそうになったのを見かねて、銀糸の髪を乾かしてやった。
全身綺麗になったレナートは「こちらの世界はすごいね。便利すぎて目眩がしそうだ」とニコニコ笑っている。春己は「次は一人でやれよ」と釘を刺し、遅めの昼食の準備を始めた。
さすがに今から調理をするのは面倒くさいので、冷凍のチャーハンをレンジで解凍し、即席のわかめスープを作る。二人分の食事を座卓へ置くと、レナートは「君が作ったのか?」と目を丸くした。
「文明の利器だよ。俺はあっためただけ」
「それでも、春己が作ってくれたことには変わりないよ。ありがとう、春己」
レナートが蕩けそうな笑顔を浮かべる。なぜか高まる胸に落ち着けと言い聞かせ、春己はなるべくレナートを見ないようにして昼食を胃に収めた。
食事が済み、春己は洗濯物を干してから、二人ぶんのインスタントコーヒーを作った。どうやら似たような飲み物がレナートの住んでいたところにもあるらしく、彼はミルクと砂糖をたっぷりと入れ、嬉しそうな顔で飲み始めた。
さて、いい加減白黒ハッキリ付けなければ。春己は居住まいを正し、向かい側に座るレナートを真っ正面から見つめた。
「レナート、俺がお前に会った記憶がないってことはもう伝わってるよな?」
「……わかっているよ。悲しいけれど」
「一個訂正しとく。記憶が無いんじゃなくて、たぶん忘れてるだけだ。高校二年生の夏休みに、俺はレナートに会ってる……と思う」
深く息を吸う。覚悟を決めて、春己は言葉を吐き出した。
「俺はそのとき、レナートの住んでる世界に行った……ってことだよな?」
もしかしたら間違っているかもしれない。いや、間違いであってくれ。春己のかすかな希望は、レナートの「そうだよ」の一言で打ち砕かれたのだった。
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