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「……待って。もう一回初めから説明して」
翌日。いつものように智也と駅へ向かう道中、春己はレナートが明彦の事務所で働くことになった経緯を伝えた。だが智也にはすぐに飲み込めなかったようで、説明を再要求される。
「だから、レナートが吉田さんの事務所でモデルすることになったんだって」
「めっちゃ端折ったね。たしかにレナートはイケメンだけど、そんな急にモデルとか決まるものなの?」
「さあ。芸能人のスカウトとかと似てるんじゃねぇ?」
インターネットの情報によると、明彦はメイクアップアーティストをしつつ、昨年『GraceAura』と言うコスメブランドを立ち上げたようだ。評判は上々で、美容系の動画配信者たちにもしょっちゅう取り上げられているらしい。
智也は歩きながら携帯電話をいじり、「ホントだ」と目を見張った。
「なんか見かけたことある気がするな。全国のバラエティショップで販売中……わかった! 半年くらい前にバズってたやつだ」
「化粧品が?」
「下地でめちゃくちゃ流行ったのがあったんだよ。あ、下地って言うのは、化粧をするときに最初に塗るやつね。そっかぁ、明彦さんのブランドコスメだったんだ」
いつの間にやら、大家の呼びかたが「吉田さん」から「明彦さん」へ変わっている。智也は携帯電話を胸へ抱き、うっとりとした顔付きをした。
「メイクアップアーティストかぁ……格好いいなぁ」
明彦の職業はホストだとつい先日主張していたのに、見事な転身ぶりだ。智也はしばらく恋わずらいのようなため息を繰り返していたが、何かに気付いたのか「大丈夫なの?」と春己へ尋ねた。
「何が?」
「レナートだよ。こっちの世界の常識とか無いのに、仕事なんかさせちゃって平気なの? もともと王子なんだし、人に使われるのって慣れてないんじゃないかな」
「まぁ、本人が乗り気だったからな。礼儀作法とかは俺なんかより詳しいだろうし、大丈夫なんじゃねぇ?」
レナートは王族だが、その割に横柄な態度は一度として取っていない。智也や明彦への接し方も紳士的だったので、職場でも上手くやっていけるだろうと春己は考えていた。
「何かあったらいつでも僕に相談してね。仲介役とか得意だし。あ、でもそのためには明彦さんに紹介してもらわないと駄目だね」
「そっちが目的だろ」
「そっちってどっち? 春己は僕の友情を疑うの? 幼馴染みなのに?」
智也がふざけた口調で言う。春己は幼馴染みの頭を「ダダ漏れなんだよ」と小突いた。
春己は学校へ行き、小野や田辺とともに先週の続きの作業を始めた。小野から報告を受けたバグを確認し、プログラムのコードを慎重に打ち込んでいく。
「ゲームを作る作業」は「異世界を創造する作業」とも言える。作業に没頭するうち、春己は現実と異世界が混ざり合うような感覚をいだいた。
午前十一時を過ぎ、チームは一息つくために小休憩を取ることにした。小野と田辺がソーシャルゲームを始める。春己は窓辺に立ち、外を眺めた。
レナートは今頃何をしているだろう。契約は問題なく交わせただろうか。心配をしているわけではないが、気にはなる。空を自由に飛ぶ鳥を目で追っていると、ズボンのポケットで携帯電話が震えた。
画面へ表示されている発信者名は吉田明彦。一瞬の緊張を感じながらも、春己は通話ボタンを押した。
「吉田だ。今大丈夫か?」
「はい。レナートはどうですか?」
「どうやらワケありのようだが、詮索はしないよ。俺たちが次に出すコスメのイメージにぴったりだしな」
他の職員との顔合わせも上手くいき、トラブルなどは起こっていないようだ。春己はうっかり失念していたが、契約書は署名が必須だ。だがレナートは日本語を練習してきていたのか、自分の名前をスラスラと書いたという。
明彦の事務所で働くにあたって、携帯電話の携行は必須だそうだ。太っ腹なことに、携帯の手配や料金の支払いは事務所側で行ってくれるという。春己は何か裏があるのではと恐る恐る探ってみたが、「あんな逸材を雇えるなら、携帯代なんか喜んで出すさ」とのことだった。レナートは相当明彦に気に入られたようだ。
明彦との通話を終える。ふう、と息を吐いて顔を上げると、小野と田辺が春己を見ていることに気付いた。
田辺が「ごめん、聞こえちゃって。レナートって誰?」と好奇心に満ちた顔で尋ねる。
「俺んちに居候してる外国人だよ。アパートの大家さんがモデルとして雇いたいって言っててさ。レナートは携帯持ってねぇから、俺が間に入ってるんだ」
「……大家さんって何者?」
「メイクアップアーティスト。コスメブランドも持ってるらしいよ」
名前を教えろと詰め寄られたので、吉田明彦だと教える。田辺はすかさず携帯で調べ、「やっば、『GraceAura』の人じゃん!」と黄色い声を上げた。
「知ってんの?」
「ここの下地とアイシャドウめっちゃいいんだよ。見ろ、私の目のラメを」
田辺が春己の前で顔をゆっくりと動かす。蛍光灯の明かりに反射して、瞼がキラキラと光った。
「なんかすごいな」
「でしょ? ラメ落ちしにくいし、なのにプチプラでさ。神コスメよ」
黙って話を聞いていた小野が、「有名なブランドでモデルやるってスゲーな」と言った。
「一気に金持ちになれそう」
「馬鹿小野」田辺が蔑むような目線を小野へ向ける。「そっちじゃねーだろ。モデルだよ? 芸能人になっちゃうかもだよ? ってことは、私たち芸能人の知り合いになれるかもなんだよ?」
「俺、芸能人とか興味ねーし」
「一生言ってろ。中村」田辺が春己の肩をがっしりと掴む。「コスメ愛用者の意見が知りたくなったらいつでも聞いてねってアキヒコヨシダに言っといて。あと、今度レナートを紹介して。何なら合コンとかでもいいから」
「本人に確認してみるよ。まだこっちに慣れてないから、落ち着いてからになるかもしんねぇけど」
「いいよ。超天才デザイナー志望に会いたくなったらいつでもどうぞって言っといて」
田辺は興奮がやまないのか、「テンション上がってきたなー」と両手をばたつかせる。小野の「そろそろ作業に戻るぞ」の声に、春己は席へと戻った。
学校が終わり、春己はまっすぐ帰宅した。二人分の焼きそばを作り、ひとまずそのままにしておく。レナートの帰りが遅いようならば、彼のぶんだけ冷蔵庫へ入れておけば良いだろう。
鞄を適当に置き、春己はベッドへ転がった。何とはなしに右手を蛍光灯の明かりへ翳し、そういえばこの指輪についてまだレナートに聞いてなかったなと思う。
シルバーの地に咲く花が柔らかな輝きを放つ。とても精巧な細工で、指輪を作った職人が、細部にまで情熱を注いだのだとわかる。指輪をゆっくりと回転させると、その色彩は深い青色に変わり、異なる表情を見せた。
何でもいい。異世界の記憶を――レナートとの思い出を一つでも思い出せたら。そう願いながら指輪を眺めるうち、いつしか春己は眠りに落ちていた。
いつものように春己は宙に浮いていて、月明かりの下で森を歩くもう一人の春己とレナートを見下ろしていた。
周りは神秘的な光で満ちている。その正体は発光する花で、様々な色の光を放つ花が無数に咲いているのだ。まるで星が地上に散っているかのような光景に、春己は宙に浮かびながら「綺麗だな」と思った。
森の奥へ進むと、突然レナートが「あれだ!」と声を上げ、ひときわ大きく輝く花へ軽快に歩み寄った。もう一人の春己はレナートの後を追い、その花へ手を伸ばそうとするレナートの傍らに立つ。
次の瞬間、隣にあった別の花が突如動き出した。柱頭部分が肥大化し、鋭利な歯を生やした口へ変わる。花に擬態していたモンスターであることが明らかになるなり、二人は即座に逃げ出した。
森を駆け抜けながらも、レナートは杖を召喚し、後ろから追ってくるモンスターへ魔術を放った。その一撃でモンスターは倒れ、森に静寂が戻る。
ハアハアと息を切らせながら、春己は地面にへたり込んだ。レナートが駆け寄り、彼を優しく抱き起こす。春己はレナートの顔を見上げ、レナートも彼を見つめた。二人の目が合い、緊張が解けると同時に、「ビックリした」と笑い合う。
空中に浮かんでいる春己も、ホッと胸をなで下ろした。あんなバケモノに食われて死ぬなんて悲惨すぎる。これまでに何度も異世界での夢を見てきたが、今回のような心臓に悪いものは初めてだ。
あんなに綺麗な森なのに、やばいバケモノが棲み着いてるんだなと怯えていると、眼下の二人の距離が急に縮んだのが分かった。
待て、と春己が言う前に、もう一人の春己とレナートがキスをした。周囲の光の効果で、イルミネーションの前でいちゃついているカップルのようだ。
キスが徐々に深いものへ変わっていることを察知し、春己は顔を押さえて宙で転げ回った。起きろ俺。今すぐ起きてくれ。
願いが通じたのか、視界が真っ白に染まる。春己が現実世界で目を開けると、至近距離にレナートの顔があった。
レナートが「起こしてしまってすまない」と言いながら、春己の額へ軽くキスを落とす。唇ではないものの、まだキスには慣れられない。春己はぎくしゃくとした動作で身を起こし、「仕事どうだった?」とレナートへ尋ねた。
「楽しかったよ。吉田さんも他の皆も良くしてくれて……そうだ、吉田さんから伝言を預かっているんだ」
「伝言?」
「うん。『今すぐ俺の部屋に来い』と言っていたよ」
恐ろしい内容とは反対に、レナートはニコニコとしている。どうやら呼ばれているのは春己だけのようなので、レナートへ夕飯は作ってあることを告げて春己は自宅を出た。
明彦の部屋は一階の左端だ。インターホンを押すと、すぐに応えがあった。「入ってこい」と言われたので、春己は躊躇しつつ部屋に足を踏み入れた。
明彦の部屋は、洗練されたセンスを象徴するような空間だった。壁にはモダンなアート作品が飾られ、グレーを基調とした家具が整然と配置されている。ベッドの隣に位置するオープンシェルフには、彼のメイクアップアーティストとしての功績を物語るトロフィーや賞状が並んでいた。
小型のダイニングテーブルに書類を広げていた明彦が、「座れ」と向かい側の席を指さした。春己は「失礼します」と小声で言い、体を強ばらせながら椅子に座った。
「レナートは記憶を無くした外国人って言ってたよな」
「はい。……もしかして、何かトラブルでもありました?」
「トラブルっつーか……おやつ休憩の時間にな、俺が手を滑らせてマグカップを床に落としたんだ。んで割れたんだ。真っ二つに」
「吉田さんの事務所って、おやつ休憩あるんですね」
「それはどうでもいいんだよ。で、『あー、お気に入りだったのになー』って言ったんだよ。そしたらレナートがそのカップを直したんだよ。接着剤とかでくっつけたんじゃないぞ。元通りに直して見せたんだ」
明彦はテーブルへ両肘をつき、ずい、と身を乗り出した。
「説明しろ」
「えーっと……レナートは何て言ってました?」
「何秒か固まったあとに、『あれ? 僕は今何をしていたんだっけ?』って逃げた」
明彦はレナートを問いただそうとしたが、そのたびに彼はのらりくらりと躱したそうだ。明彦はアパートに着いたら春己に聞いてやると心に決め、実行に移したという。
「マジックだって種や仕掛けがあるだろ。あんなのは無理だ」
明彦の顔からは恐怖の色が見て取れた。当然だ。突然種も仕掛けもない魔術を目の前で見せられたのだから。
春己は散々迷った挙げ句、「これから俺が話すことは他言無用でお願いします」と念を押し、レナートが異世界人であることや魔術が使えることを話した。明彦は最初こそ疑うような目をしていたが、レナートが魔術を使う場面を思い出したのか、「なるほどな」と理解したような顔付きをした。
「アレか、異世界転生とかそういう感じのアレか。転生はしてないけど」
「そういうアレだと思います。……納得できました?」
「いや……一旦タバコ吸わせてくれ」
明彦はヨロヨロとした足取りで外へ出て、五分後に戻ってきた。「何とか飲み込んだ」と着席するも、今にも吐き出しそうな表情をしている。
「吉田さん、レナートのことは……」
「誰にも言わんよ。言っても信じてもらえないだろうし。俺もまだ喉元を頑張って過ぎようとしている状態だし」
「モデルの仕事は続けても?」
春己が不安を覚えながら尋ねると、明彦は「それと異世界なんたらは無関係だからな」と言った。
「俺からも伝えるが、中村さんからも伝えてくれ。人目に付く場所で魔術は使うなって」
「分かりました。あ、俺のことは呼び捨てでいいですよ」
「じゃあ春己って呼ぶな。事務所でレナートが『春己、春己』って連呼してるから、俺もそっちの方が呼びやすい」
レナートが人前で魔術を使用したのは明らかな失態だが、それによって明彦に真実を伝えられたのは怪我の功名だろう。今後レナートがうっかり口を滑らせても、きっと明彦がフォローを入れてくれるはずだ。
春己はそっとため息を吐いた。良かった、吉田さんが良い人で。
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