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レナートは、春己のアパートでの生活に少しずつ馴染んでいった。明彦から支給された携帯電話を使いこなすようになり、異世界人には想像もつかなかったであろう現代技術にも順応している。初めて電車に乗った時の驚きっぷりや、コンビニの自動ドアを興味深げに触れていたのが嘘のようだ。
明彦の事務所では、レナートは雑用を手伝いながら、モデルとしての活動を開始する準備を進めていた。事務所は映像配信サイトで美容関連のコンテンツも制作しており、レナートはその動画でコスメの魅力を伝える役割も担うことになる予定だ。彼の見目麗しい外見と異世界人ならではの魅力は、間違いなく視聴者を引きつけるだろう。
春己の生活にレナートが加わってからもう二週間が経過し、二人の共同生活は意外にもスムーズに進んでいた。カラーボックスにはレナートが買った雑貨が並び、テレビの前の座卓には二人用の小さなソファが置かれている。少しずつ賑やかになっていく部屋を、春己はひそかに楽しんでいた。
春己がレナートへ「口以外のキスとハグ」を許してからというもの、レナートは積極的に春己へ触れるようになった。就寝前の「お休みのキス」は、もはや春己にとって日常の一部になっている。
学校でゲーム制作に関するトラブルが発生しても、家に帰ってレナートの顔を見るとひどく安心する。心が疲れているときのハグは心地よく、ストレスが軽減していく。レナートとの日々は、これまでは乾いていた春己の生活に、潤いを与えてくれているような気がした。
学校が終わって春己が帰り支度をしていると、レナートから「今日は早く帰るよ」とメッセージが届いた。「夕飯、どっかで一緒に食う?」と送る。すぐさま「行きたい!」のメッセージと、可愛らしいスタンプが送られてきた。
最寄り駅でレナートと合流し、駅の近くにある中華料理店へ向かう。こぢんまりとした店内は清潔感があり、店主が中華鍋で調理している音が小気味よく響いている。春己とレナートは壁側の席へ座り、いそいそとメニューを開いた。
棒々鶏や春雨サラダといった前菜から、エビチリやエビマヨ、鶏肉のカシューナッツ炒め、麻婆豆腐、五目焼きそばなど、魅力的すぎる料理名がずらりと並んでいる。
春己が「中華って何食べても美味いから、毎回悩むよな」と唸りながら言うと、レナートは「異世界人がこちらへ来た際に一番早く覚えるべきなのは、中華料理に使われる漢字と意味だよ」と眉間にしわを刻んだ。
二人は悩んだ末、春雨サラダとエビチリ、肉団子の甘酢と八宝菜をオーダーした。定食セットにしたので、ごはんとスープも付いてくる。
食事をしながら、春己は「そういえばさ」と切り出した。
「前に聞いたときは秘匿事項とか言ってたけど、そろそろ教えてくれてもいいんじゃねぇ?」
「何を?」
「俺が異世界に召喚された理由」
レナートは一瞬だけ砂を噛むような顔でエビチリを咀嚼した。「申し訳ないけれど、それだけは言えないんだ」
「なんで?」
「君にそれを伝えるには、僕の世界に居る最高位の神官から許可を得なければならないんだ。掟だからね。破るわけにはいかないんだよ」
「見張ってるヤツなんかいねぇのに?」
「僕の信用に関わるからね。本当にすまない」
最高位の神官でなければ明かせない、春己が異世界へ召喚された理由。隠されれば隠されるほど気になってしまうが、レナートに詰め寄ったところで彼に迷惑をかけるだけだ。 レナートの表情が翳ってしまったので、春己は最近見た夢の話へ話題を変えた。ファンタジーゲームに出てくるような古代遺跡を探索していた夢で、春己とレナート以外にも、初めて見る人物が三人いた。
レナートによると、その三人は旅の仲間だそうだ。そのうちの一人は元盗賊の頭領で、金目の物には目がなかったという。春己が見た夢でも、最後にたどり着いた神殿の大広間で、盗賊の頭は石像に嵌まっていた宝石を獲ろうとして罠に引っかかっていた。
「夢の最後でさ、レナートが俺に約束を覚えてるかって聞いたんだけど、何を約束したんだ?」
レナートはデザートの杏仁豆腐を食べる手を止め、「えーと」と視線を泳がせた。
「なんだよ。これも俺に言えねぇのか?」
「そうではなくて……春己が聞いたら嫌な思いをするだろうから」
「ホラーとかグロい話?」
「そんな禍々しいものではないよ。だからその……遺跡の近くには街があったんだ。遺跡探索が終わったら街へ寄ることになっていて、そこで――」
レナートがテーブルの上で春己の手を握り、顔を寄せてきた。
「約束していたんだ。……君を抱くと」
抱く? 春己は脳内でその単語を繰り返した。『抱きしめる』の意味ではないだろう。レナートがわざわざ約束をし、遺跡を出る前に再確認をしていたということは――。
春己は理解するなり、全身が一瞬で熱くなった。嘘だろ。俺、レナートと一線越えちゃってたのかよ。
「春己、大丈夫かい?」
「大丈夫……聞かなきゃ良かったとは思ってるけど」
「やっぱり気持ち悪い?」
「気持ち悪いとかじゃなくて……察しろ」
レナートの顔を見ていられなくなり、春己は壁に貼ってあるメニューへ目線を移動させた。駄目だ、恥ずかしすぎる。レナートは考えるような顔付きをしていたが、「もしかして」と春己の手をそっと撫でた。
「恥ずかしい?」
「言うな」
レナートの爆弾発言のせいで、春己は自宅への道を歩きながらも、頭の中でレナートのことを考え続ける羽目になった。
男同士の性行為の知識は無いが、なんとなく予想は付く。頬を紅潮させて迫ってくるレナートが頭の中をよぎったところで、春己は後方から肩を強く引かれた。
「危ないよ春己」
どうやら、あと一歩で電柱に激突するところだったようだ。礼を言わねば、と春己は顔を上げようとして、レナートがこちらをじっと見つめていることに気付いた。
「考え事?」
「あ……うん。ごめん」
「謝る必要は無いよ。それより……」レナートが顔を近づけてくる。「春己が何を考えていたのか知りたいな」
近い! と叫びそうになったのを、春己はぐっと堪えた。レナートの頬はうっすらと赤く染まり、瞳にはいつもと違う色が宿っている。先ほど妄想したレナートの顔が重なり、春己の体が勝手に震えた。
「俺は、別に……ちょっとボーッとしてただけで」
「本当に? 目が少し潤んでいるように見えるけれど」
レナートの指が春己の顔を優しく撫でた。ピリッと電流に似た刺激が走るのを感じ、春己の体が再び震える。
「さっきあくびしたから、かな」
「嘘。あくびなんかしていなかったよ」
「……噛み殺したんだよ」
レナートは「そうなんだ」と含み笑いをし、それ以上の追求はせずに歩き出した。
互いに無言のままアパートへ到着し、外階段を上る。玄関の鍵を開けて中へ入るなり、レナートが春己を壁へ押しつけてきた。
「レナート?」
「春己、僕は君が好きだ。君が何よりも大切だし、守りたいと思っている」
レナートの表情は真剣そのものだ。春己が「わかってる」と返すと、レナートは「本当に?」と春己の顔を覗き込んだ。
「じゃあなぜ、僕を煽るんだい?」
「は? 煽ってねぇし」
「煽ってるよ。遺跡での夢の話もそうだし、帰り道でも……今も。春己、君は自分がどんな表情をしているか気付いているかい?」
どんな顔と言われても、玄関には鏡がないので確認のしようがない。お返しに、「今のレナートだってすごい顔してるぞ」と言ってやった。
「すごい顔って、どんな顔?」
「だからその……なんかギラギラしてるっつぅか……エロい顔、してる」
「春己も同じだよ」
レナートが目を細め、熱っぽく見つめてきた。春己の肩から指先にかけて指でたどりながら、顔を近づけてくる。
キスをされる――たぶん唇に。わかっているのに、春己は「やめろ」と言い出せなかった。腹の奥がウズウズとする感覚に、自分は期待をしているのだと意識する。
予想どおり、レナートの唇が春己のそれを塞いだ。十秒ほど押し当ててから、レナートがゆっくりと身を引く。
「そんなに物欲しそうな顔されると、もっと色々したくなってしまうな」
「してねぇよ」
「そう? 本当は軽いキスじゃなくて、もっと激しいのがしたいって顔に書いてあるけれど」
「書いてねぇ。勝手に解釈すんな」
春己が軽く睨み付けると、レナートは「やれやれ」と大袈裟に肩を竦めた。
「君の気持ちとは無関係に、体が勝手に反応してしまっているのだろうね。記憶は無くしても、魂が僕を覚えていてくれているのかと思うと嬉しいな」
「キモい推論を並べんな。今回のは、たぶん俺も悪かったから仕方ねぇけど、もう口にキスすんなよ」
「どうだろう。また春己から煽られたら、してしまうかも」
「そんときは『煽ってる』って言え。すぐにやめるから」
「わかったよ」レナートは素早く春己の手を取り、指先へキスを落とした。「じゃあ、お風呂を洗ってくるね」
レナートは立ち去り際、春己の耳元で「好きだよ」と言い、浴室へと姿を消した。
春己はずるずるとその場へしゃがみ込んだ。心臓がドクドクとうるさい。体中が火照って、まるで高熱を出したときのようだ。
膝を引き寄せ、体を丸める。全身が破裂しそうな感覚の中、声には出さずに吐き出した。
なんで俺、ドキドキしてんだよ。
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