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第1話
1
緑豊かな草原にそびえ立つ大きな木の下で、中村春己は見知らぬイケメンと並んで座っていた。正確に言うと、春己自身は宙に浮いていて、もう一人の自分とイケメンを見下ろしている。
イケメンは水色を帯びた銀糸の髪に、海のように深い蒼い瞳をしていて、顔立ちはモデルのように整っている。纏っている服はファンタジーゲームに出てくるキャラクターそのもので、白いマントが風にたなびいていた。
これは夢だ、と春己は宙に浮かびながら思った。
イケメンが誰なのかは知らない。だが、春己はこのイケメンが出てくる夢を、もう百回近く見ている。シチュエーションは毎回違っていて、見知らぬ街を散歩していたり、洞窟のような場所を探索していたりと様々だ。
イケメンが何かを言い、もう一人の自分が笑う。彼らの声自体は聞こえてきているが、その内容は理解出来なかった。たとえるなら、聞いたこともない言語の映画を、字幕無しで観ている気分だ。
風が強く吹いた。もう一人の春己の髪が乱れ、イケメンが優しい手つきで直す。恋人同士のようなやりとりに、春己は思わず顔を逸らした。
春己の恋愛対象は、おそらく女性だ。「おそらく」と付いているのは、春己が恋愛未経験者だからで、二十歳になったいまも立派な童貞だからだ。専門学校を卒業するまでには彼女の一人くらい出来るだろうと高をくくっていたが、童貞のまま社会人になるのも時間の問題な気がした。
――もしかして、欲求不満なのかな、俺。
春己はくるりと体を反転させ、すきとおった空を見上げた。うっかり太陽を直視してしまい、視界が真っ白に染まる。
今度は何かのメロディが聞こえた。聞き覚えのある、単調で不快なこの音は――。
春己は目を開け、天井を三秒ほど見つめたあと、ゆっくりとベッドから起き上がった。カラーボックスへ腕を伸ばし、鳴り続けている携帯電話のアラームを止める。
あくびをしながらベッドから降り、窓とカーテンを開けた。十月も下旬になると、舞い込んでくる風が少し冷たい。ベッド脇に放りっぱなしのパーカーを肩にかけ、洗面所へ向かった。
うがいをしてから顔を洗う。水滴が飛んだ鏡に、特徴のない凡庸とした自分の顔が映った。目にかかりそうな前髪を指で払い、そろそろ美容院へ行かねぇと、と思いながら居室へ戻る。
1Kの部屋は縦長の構造だ。玄関を開けるとすぐにキッチンがあり、反対側にトイレや浴室などの水回りがある。その先の居室は八畳で、ベッドにテレビセット、座卓、パソコンデスク、小さな本棚やカラーボックスが置いてある。幼馴染みの智也いわく、「実用的すぎて全然面白くない部屋」だそうだ。彼の部屋は春己と正反対なので、余計にそう思うのかもしれない。
故郷の両親から「朝ご飯はちゃんと食べろ」と口酸っぱく言われているので、冷凍ごはんをレンジで解凍し、お茶漬けにして食べた。冷蔵庫に四個パックのヨーグルトが残っていたので、それも胃に収める。賞味期限が三日過ぎていたが、まあ大丈夫だろう。
寝癖が付いていた髪をドライヤーで整え、黒いニットとデニムを身につける。カーキ色のモッズコートを羽織り、ノートパソコンやUSBメモリなどの必需品をトートバッグへ詰め込んだ。
スニーカーを履き、玄関のドアノブへ腕を伸ばす。金属の冷たい感触が広がるのと同時に、春己は「まただ」と思った。
このドアを開けたら、新しい何かが待っているかもしれない――〝何か〟の正体もわからないのに、自分はその〝何か〟を期待してドアを開ける。
拓けた視界に映るのは、見慣れたアパートの共有廊下と、欄干にもたれて立っている幼馴染みの姿だった。いつもと変わらぬ日常に、なぜか落胆する。
「おはよー、春己」
小島智也はいじっていた携帯をトレンチコートのポケットへしまい、春己へ微笑んだ。智也の顔立ちは中性的で、グレーのカラーコンタクトを愛用している。髪は焦げたキャラメルのようなオシャレな色だ。
智也が「今日のコーデどう? 韓国ドラマの俳優を真似してみたんだ」と、その場でくるりと回転する。幾何学模様のシャツに細身のパンツを合わせるなど、春己にはとうてい不可能なコーディネートだ。
「スゲェ似合ってるよ。今日のピアスは……なんかキラキラしてるな」
「スワロフスキーだからね。すっごい可愛いでしょ」
智也が嬉しそうに顔を左右に動かす。そのたびに、青くすきとおったフープピアスがキラキラと輝いた。
夢に出てくるイケメンの目に似てるな――思わず目で追うと、智也が「気に入った?」と笑った。
「春己もピアス開けてみたら?」
「やだよ。痛いの嫌いだし」
「そんなに痛くないって」
どちらともなく歩き出し、二階建てアパートの外階段を降りる。掃除をしていた大家の吉田明彦が「おはよう」と声をかけてきた。
明彦は手入れの行き届いた髪を無造作にひとまとめにしており、垂れ目がちで優しそうな顔つきをしている。年齢は不明だが、智也の推測によると「三十代後半」だそうだ。
アパートの敷地を出るなり、智也が「吉田さんって、何の仕事をしてると思う?」と春己へ耳打ちした。
「うーん……美容師とか?」
「僕はホストだと思うな。歌舞伎町の指名ナンバー1ホスト」
理由を問うと、智也は「だって、吉田さんってめちゃくちゃ色気あるじゃん」と力説した。
「あの色気はなかなか出せないよ。あーあ、僕も優しく接客されたいなぁ」
「ホストってもっとチャラそうなイメージだけどな。けど、もしホストだったとしたら、なんであんなボロパートに住んでるんだろ」
春己達が住んでいるのは、築四十年以上が経過している年季の入ったアパートだ。外観は昭和を感じさせる風合いだが、室内は何年か前にリノベーションされているため、快適に暮らせている。とはいえ、きらびやかな職業の人間が住むには、立地的にも建物的にも不似合いに思えた。
「住む場所にはこだわらない人なんじゃない? それよりさ、吉田さんっていま恋人いるのかな」
「さあ。本人に聞いてみれば?」
「えー、ヤダ。不審者扱いされたくないし」
智也はバイセクシュアルで、本人も堂々と公言している。春己は高校生のときに智也から彼の性的指向を打ち明けられ、驚きはしたものの「そうなんだ」と受け入れた。我ながらあっさりとした反応だったなと思うが、智也からすれば「一番理想的な反応」だったらしい。
現在春己はゲーム、智也はファッションの専門学校へそれぞれ通っているが、二人の関係は小学生の頃から何も変わっていない。春己にとって智也は、何でも相談出来る唯一無二の親友なのだ。
駅へと続く道を、智也と雑談しながら歩く。話題はいつしか、春己の夢へと変わっていた。
「え? 謎のイケメンまた出てきたの?」智也が指を三本立てた。「今月もう三回目じゃん。今回はどんな夢?」
「草原で楽しそうに話してた。ピクニックでもしてたんじゃねぇかな」
「いいなー。僕もイケメンとピクニックしたい。で? やっぱりまだイケメンのこと思い出せてないの?」
「思い出すも何も、会った覚えもねぇんだって。ファンタジーな服着てるし、場所も日本っぽくねぇし……やっぱり、昔やったゲームに出てきたキャラか何かだと思うんだよな」
例のイケメンが初めて春己の夢に出てきたのは、今から三年ほど前のことだ。一回目は特に気にしなかった。二回目は「そんなこともあるか」と気にしなかった。三回目になって「ちょっと変じゃないか?」と思い始め、四回目で智也に相談した。
智也はその際も「春己が以前会った人物」だと力説したが、髪を銀色に染めるような知り合いはいない。そもそも、イケメンの顔立ちからするに日本人ですら無い。だとするなら、春己がこれまでに触れてきたエンタメコンテンツ――ゲームやアニメ、漫画の登場キャラクターである可能性が高いだろう。そう考え、ネットやSNSで調べまくった。だが、似たような特徴のキャラクター情報は出てくるものの、同一のキャラクターは見つからなかった。今でも時折調べているが、結果は同じである。
「違うって。絶対春己が忘れてるだけだって」
智也が確信を持ったような口調で言い、「証拠があるもん」と春己の右手を指さした。
「その指輪、自分で買ったわけじゃないんでしょ?」
春己の右手の薬指には、繊細な模様が刻まれたシルバーの指輪が収まっている。智也の慧眼によれば、どうやら桜の花びらがモチーフとなっているようだ。光に当てると深い青色にきらめくため、智也から「夜桜の指輪」と名付けられた。
この指輪をいつどこで買ったのか、春己はまったく覚えていない。ある日突然、指に嵌まっていたのだ。
捨てたほうが良いのでは、と何度も頭をよぎるものの、なぜか指輪をはずす気になれない。三年間付け続けているせいか、もはや体の一部になった気さえしてくる。
「春己って、もともとアクセサリーを付けるタイプじゃないし。イケメンからもらった大切なプレゼントなんだよ、きっと」
「んじゃ、なんで俺はそれを覚えてねぇんだよ」
「だから、その直後に頭打ったとかなんかあって、全部忘れちゃってるんだよ。じゃないと辻褄が合わないもん」
もし本当に智也の言葉が正しいのだとしたら、春己にこの指輪を贈った人物はさぞ落胆しているだろう。プレゼントしたことはおろか、その存在すら忘れ去られているのだから。
智也が「運命のイケメンに再会できたらすぐ教えてね」とイタズラっぽく笑う。春己は「綺麗なお姉さんが良かったな」とため息を吐いた。
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