逃走

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 初鳥集落への道はろくに街灯もなく、暗かった。  家を出たときはまだ紺色を残していた空が、急速に、墨を流したような黒へと変わりつつある。  気ばかりあせって、何度も足がもつれる。ほっぺたに感じる空気は肌が切れるほど冷たいのに、ジャンパーの中は汗だくだった。  だから、坂だらけの集落の奥に神代家の門柱の明かりが見えたときには、正直ほっとした。  周囲を警戒しながら、そっと近づく。  リアの言うとおり、救急車の姿はなかった。外からようすをうかがう限り、屋敷はシンと静まりかえって、なんの異変も感じさせない。  ぼくはお寺を思わせる垣根をぐるっと迂回して、裏手の茂みに分け入った。  ざくざくと落葉を踏む音が、やけにうるさく響く。  垣根にそってしばらく進むと、一か所だけ塀が切れて、年季の入った木戸がはまっているのを発見した。軽く押すと、なんの抵抗もなく開く。  裏庭……というほどでもない、屋敷と垣根の間のせまい空間に目を遣ると、なにかが月明かりを反射して、きらりと光った。アルミサッシの窓に、反射材で作られた鳥除けのモビールがはさまっている。  近づいて窓をたたくと、防寒具をがっちり着こんだリアが顔を出した。リアのベッドはちょうど窓ぎわなので、やりとりに不都合はない。 「ひばり……!」 「しっ」  口の前に人差し指を立ててみせる。  リアは青ざめた顔でうなずき、ささやき声で続けた。 「みんな地下室にいるから、今ならいけるかも。車椅子、窓から出すから、そっちで受けとってくれる?」  ぼくがうなずきかえすと、リアが体で押しだすようにして、ぺしゃんこに折りたたまれた車椅子を送りだしてきた。  受けとり、そっと垣根に横たえると、次はアルミの松葉づえを二本渡される。  それが終わると、最後はリア自身だった。玄関に靴を取りに行く余裕はなかったのか、体育館シューズみたいなものをはいている。  左側を支えてあげながら、そっと地面におろすと、リアは松葉づえを手に取りつつ、意外としっかり立ちあがった。だらんとした左足を引きずるようにしながら、けんけんで歩きはじめる。 「ごめん。車椅子のほうお願い」 「わかった」  リアは裏口をくぐって林の中に出ると、正面へはむかわず、けもの道だかなんだかわからないような踏みわけ跡にそって移動をはじめる。確かに、ここを車椅子で通るのはムリだ。 「こんな道、あったんだ」 「これ、山仕事の人が使う林道なの。集落の中を通らずに、直接、ふもとの街のほうへ出られるから」  リアは首から、ストラップつきのペンライトを提げていた。  光量をしぼったそれを口にくわえ、歩きながら、行く先を照らす。  よく見ると、木の枝にときどき、ピンク色のビニールテープが結ばれているのがわかった。リアはそれを目印にしているらしい。  はじめは平気そうに見えたリアだったけど、すぐにふうふうと肩で息をしはじめた。手助けしたかったけど、こっちも運びなれない車椅子をかついでいるせいで、余裕がない。  だから、林が途切れて道らしい道に出たときは、正直ほっとした。  舗装されているわけではないけど、土がしっかり、車のタイヤに踏みならされている。ただし、けっこう急なくだり坂だ。  リアに指示してもらって、ふたりで車椅子を組みたてた。  松葉づえを預かる。リアに手を貸しながら、どうにか無事、車椅子へ座らせた。 「ありがとう」 「うん」 「ありがとう……本当に……」 「ちょっ……リア?」  リアはなかなか、ぼくの手を離そうとしなかった。  しょうがなく、こっちから振りほどくと、リアははっと我に返ったようだった。松葉づえをひったくると、器用にひざの間にはさむ。 「ハンドル持って、後ろから支えてくれる? 下り坂は怖くて」 「ん。わかった」  下り坂は車椅子を後ろ向きにして、あとずさりしながらおりるのが原則らしい。  ぼくはリアの言うとおりに、そろりそろりと坂をおりはじめた。そのときだった。  ざ。  ざざざ――ざざざざ。  森が、()いた。  まるで、強い風が吹いたようだった。  周囲の樹という樹、草という草が震え、激しく葉ずれの音を立てる。それは波紋が広がるように、ぼくたちが来た方向から伝わってきて、反対側の森の奥へと消えていった。  名前もわからない鳥の群れが、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ、と叫び声をあげながら飛び立つ。夜空に、闇よりも暗い影が無数に舞った。  ぼくとリアは、思わずお互いの顔を見合わせた。 「なに、今の」 「わからない。……でも、急ご」
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