氷の夜に

1/1

7人が本棚に入れています
本棚に追加
/54ページ

氷の夜に

 未明のアスファルトは氷のように冷えきっていた。  素足を一歩踏みだすたび、足裏の皮が路面に貼りつき、はがれる。  それでも西林(さいりん)詩歌(しいか)が歩調をゆるめることはなかった。  むしろ一歩ごとに心が浮きたち、脳が多幸感に満たされてゆく。赤()けになった両足は、麻痺したように痛みを感じない。  詩歌の少し先を、あの子(・・・)が軽やかな足どりで歩いてゆく。  チョコレート色の豊かな巻き毛。真っ赤なつば広の帽子に、同色のドレス。  あの子(・・・)が数メートルごとに振りかえり、つややかなくちびるをきゅっと曲げて手まねきをするたびに、詩歌の心は感動で打ちふるえた。  このときを、ずっと待っていた。  あの真っ白な個室を、閉鎖病棟の金網を、どうやって抜け出したのかは思いだせない。それ以前の記憶も、もやがかかったようにあいまいだ。  それでも、自分が今、いるべくしてこの場所にいることには揺るぎのない確信があった。これまでの自分の人生はこの日のためにあったのだと、一分(いちぶ)(すき)もなく信じられる。  だって。  だって、あの子(・・・)が――メイズさんがそう言っているんだから。  クスクス……クスクスクスクス……。  メイズさんは詩歌を、御簾角(みすかど)病院の裏手に広がる木立の陰へと導いた。すぐ目の前は、病院の駐車場だ。  蛍光灯の白い明かりに煌々(こうこう)と照らされた駐車場からは、闇に沈んだ木立の中を見とおすことはできない。  逆に詩歌のほうからは、駐車場の様子が手に取るようにわかった。  ここからなら、不意をつくのは簡単だ。  詩歌は手にした金属棒をぎゅっと握った。  もとは、一般病棟で使われているスプーンだったものだ。ただし先端のつぼ(・・)の部分がねじり切られたうえ、断面が鋭利にみがきあげられている。骨をつらぬくことはできなくても、やわらかい肉を切り裂くには充分だ。  そのことはつい今しがた、担当医の体で実証したばかり。  今ごろは彼女の同僚たちが、血眼で詩歌を探していることだろう。ここでじっと息をひそめていたとしても、見つかるのは時間の問題だ。  だとしても、詩歌はいっこうにかまわなかった。  そのときまでには、詩歌のなすべきことは終わっている。他ならぬメイズさんがそう言ったのだから、間違いない。  そう、メイズさんは間違えない。  メイズさんは、いつだって正しい。 「メイズさんの――……言うとおり……」  歌うように詩歌がつぶやくと、白くけぶる吐息がふわりと舞った。  零度近い外気が肺を焼く。けれど、その感覚さえも心地いい。  詩歌に寄りそって立つメイズさんが、金色の懐中時計のフタをぱくんと閉めた。 「時間よ」  砂糖を煮詰めたように甘い声が、耳をくすぐる。 「ここからが、難しいところだけれど……シーカ、あなただったら、うまくやってくれるわね」  詩歌は犬のように何度もうなずいた。  口の端から垂れた唾液が、銀色の糸となって揺れる。  同時に。  駐車場に、一台の車が姿を現した。  闇を切り出したような黒塗りのワゴン車。じゃりじゃりとアスファルトを噛む音をさせながら、それは詩歌がひそむ木立の、ほんの目と鼻の先に停まった。  いささか慌てたようすで、長身の男が降りたつ。  灰色のセーターに、カラスの羽を思わせるブラックレザーのコート。神経質そうな切れ長の目に、銀フレームの眼鏡をかけている。  メイズさんがうなずいた。 「今よ。さあ、行って」  次の瞬間、詩歌の心はあの夏の日に飛んでいた。  灼熱の炎が街を焦がす中、詩歌は戦った。正しいことをした。  もう一度、あれと同じことをすればいいのだ。  奇声とともに木立から飛びだしてきた詩歌の姿に、黒衣の男が一瞬、身を固くするのがわかった。  隙だらけだ。一秒で終わる。  そう思ったのもつかの間。ゆっくり一秒を数え終えても、詩歌はまだ男のもとへたどり着いてすらいなかった。  激しいスポーツで鍛えられ、気力体力ともに充実していた半年前と違い、骨と皮ばかりにやせた体は空気のように頼りなく、もどかしいほどに遅かった。  結果的に――男が体勢を立てなおすほうがわずかに早かった。  男はかろうじて、詩歌がくり出した血みどろの金属棒を両手で受けとめる。  両者はそのままもみ合いになった。しゃにむに食らいついてくる詩歌の体を、男が力いっぱい突きとばすと、詩歌は羽毛のように浮きあがり――次の瞬間には棒を倒すように、頭から落ちた。  落ちた場所には、コンクリートの車止めがあった。  ごきり。  首に衝撃を感じると同時に、なにもわからなくなった。  詩歌をとりまくのは、氷のように冷えきった闇だけだ。 (これで――よかったのよね?)  静寂。  ぶ厚く積もった雪が音を吸いこむように、詩歌の問いは冷たい闇に吸われて消えていく。  クスクス……クスクスクスクス……。  聞こえてくるのは、少女のしのび笑いだけ。だがそれも、今はひどく遠い。 (ねえ。私――間違ってないわよね。ちゃんと、正しいことをしたのよね。ねえ。ねえってば。ねえ、ねえ、ねえ……――!)  だが、西林詩歌の問いに答えが返ることは、二度となかった。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加