渾沌回廊

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渾沌回廊

 気がつくとぼくは、あの大正ロマンふうの洋間にいて、ソファに深々と腰かけていた。  正面のテーブルをはさんだ反対側には赤いワンピースドレスのメイズさんがいて、高価そうなティーセットでお茶をしている。  変にふわふわした気分だった。寝ても覚めても非日常的なことばかり起こるせいで、自分が今見ているのが現実なのか、夢なのか、わからなくなる。 「いらっしゃい、ヒバリ。また会えてうれしいわ」 「メイズ……さん」 「どうかしら。私の占い、役に立ったでしょう。あなたがなかなか使ってくれないものだから、ずいぶん気をもんだけれど」 「ああ……うん。助かったよ。……ありがとう」 「クスクス……どういたしまして。けれど、あんなものはただのその場しのぎ。いくらオノゴロ童子のよき遊び相手になったところで、あれの支配から抜けだすことはできないわ」  それはよくわかる。  ぼくがオノゴロ童子のご機嫌をとるのは、ぼくを監禁している人たちをかえって喜ばせる行為でしかない。そんなことをしても、死ぬまで使い潰されるだけだ──数日前まであの座敷牢の住人だった「比和子おばさん」と同じように。 「でも……だからって、どうするの。映画みたいに、トンネル掘って脱獄する? それか、どうにかして警察に通報するとか……」 「それもうまくはいかないでしょうね。たとえ牢を抜けだせたとしても、オノゴロ童子は必ず追ってくる。あなたとジンダイリアが逃げようとした日のくり返しになるだけよ。外部に助けを呼ぶという試みも──この家の息のかかった人間に握りつぶされて終わるでしょうね。いま、集落に残っているのは、何世代にもわたってオノゴロ童子の脅威を肌で感じてきた者たちよ。ジンダイ家の不利益になるようなことを許すはずがないわ」 「じゃあ、どうしたらいいのさ」 「簡単なことよ」  メイズさんはうっすらほほ笑むと、湯気をたてるティーカップを口に運んだ。 「オノゴロ童子を、(たお)す」 「えっ……」  あれを……倒す? 殺すってこと? 「ジンダイ家の影響力は、オノゴロ童子の後ろ盾があればこそだもの。あれがいなくなれば、この家の者たちにはなんの力も、特権もないわ。そうなれば抜けだすのは簡単」 「で、でも……本当に殺せるの? あんなもの」 「クスクスクス……そうよ。ところでヒバリ。あなた、この部屋がどういう場所だか理解している?」 「え?」  いきなり話が変な方向に飛んで、ぼくは混乱する。 「夢の中……なんでしょ。昨日、自分でそう言ったじゃん」 「そのとおりね。だけど、それは三分の一だけ正解」 「わかんないよ」 「確かに、ここは夢の世界よ。そして生と死のはざま、魂の領域でもある。昔から多くの人間が、夢の中で、魂の世界を垣間見てきたわ。あなたも──近い経験があるでしょう」  どきりとした。  メイズさんが言っているのは……バイロケーションのことか。あれはぼくが眠っている間に、魂がふらふら歩き回っていたせいだと、そう言いたいんだろうか。 「第三に、ここはオノゴロ童子をひとつ(ところ)に閉じこめておくための檻でもある。あなたのいる座敷の祭壇に祀られている箱……あれが檻の(かなめ)よ。オノゴロ童子は檻に魂を閉じこめられた囚人であり、檻の内部を支配する王でもある。檻の中はやつの巣であり、王国であり──体内ですらある」  説明されて、ぼくはよけいにわからなくなった。よっぽどひどいしかめっ面をしていたのか、メイズさんはぼくの顔を見て、クスクスと笑う。 「そんなに難しく考えなくても大丈夫よ。大切なことは、ひとつだけだから。いい? この部屋を出ると、長い廊下がある。そこをずっとずっと先まで行くと、いつか、この領域の一番深いところにたどり着くわ。そこには、オノゴロ童子という存在の核――生き物にたとえるなら、心臓にあたるものがある」 「そ、それを壊せば……殺せる? オノゴロ童子を?」 「ええ。人間には難しいけれど、私になら──できるわ。ただし、別の問題があるの。私の魂は今、ジンダイコースケの装置に囚われていて、この場所から動けない。これは、現実に存在している装置のほうを壊さないと、どうにもならないわ」 「……そんな。じゃあ無理じゃん」 「クスクス……だからこそ、あなたの助けがいるのよ。ヒバリ。あなたには才能があるわ。離魂病(りこんびょう)……バイロケーション……呼び名はともかく、夢の中で、魂を散歩させる才能がね。……これからあなたに、私の魂の()を預けるわ。その、私とのつながり(・・・・)を持って、オノゴロ童子の心臓までたどり着いてほしいの」  そう言うと、メイズさんはするりとイスからすべり降り、ぼくのところへ歩いてきた。  チョコレート色の髪と赤いドレスのすそが、風をはらんでふわふわとなびく。  ひんやりした、すべすべの小さい手が、ぼくの左手をつかみ──自分のほっぺたのあたりへと持っていく。  メイズさんはそこで動きを止め、小首をかしげた。許可を求める動き。  ぼくは、少しだけ迷って……うなずいた。  メイズさんのくちびるが、花のつぼみみたいにほころぶ。  彼女はぼくのスポーツウォッチをずらすと、左手首の内側に、そっと口づけをした。  じっ、と肌の焼ける感覚に、思わず手を引く。  そこには──黒々と鮮明な、円形のアザができていた。中央にはS字の線とふたつの点があり、なにかのマークのように見える。 「これで、私とあなたの運命はひとつ。がんばりましょうね──ヒバリ」  メイズさんはそう言って、優雅にほほえんだ。
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