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重厚なとびらを押しあけて、大正ロマンの部屋を出る。
和風の長い廊下が左右に伸びていた。砂壁と板張りの廊下。襖と障子戸。数日前、リアに案内してもらった、神代家の廊下にそっくりだ。
ただし、こっちのほうが明らかに薄暗くて、寒々しい。さっきまで色ガラスのあざやかな光の中にいたせいで、そう感じるのかもしれないけど……。
『右よ』
「うわっ」
いきなり、頭の中で声がした。
「メ……メイズさん?」
『そうよ。感度良好みたいね……クスクス』
振りむくと、テーブルの前でメイズさんがにこやかに手を振っているのが見えた。口は動いていないのに、声だけはダイレクトに伝わってくる。
『今、私とあなたの魂は、とても強くつながっているわ。あなたが望むなら、視覚的にわかりやすくしてあげることもできるけれど……』
その瞬間、まるであぶり出すみたいに、ぼくの左手首から伸びる銀色のワイヤーがあらわれた。目には見えるけどさわることはできないらしく、まっすぐ壁を貫通して、メイズさんの胸元──ちょうど首にかけた懐中時計のあたりへつながっている。
「うわっ、ちょ、これ、引っかかって切れたりしないの? 落ち着かないんだけど」
『クスクス。平気よ。でも、お気にめさないようだから消しておくわね』
言うと同時に、銀色のワイヤーがぱっと消える。
左手になんの感覚も残っていないのが、かえって変な感じだった。
『さあ、時間がもったいないわ。ひとまず先に進みましょう』
「わ、わかった」
ぼくは、向かって右の廊下を歩きだした。
とにかく暗い。天井には電球のひとつもなく、墨を流したみたいな闇がわだかまっている。光源は、ところどころに配置された障子からもれてくる、豆電球みたいな光だけだ。
大正ロマンの部屋で借りたスリッパがぺたぺたと鳴る、その音がやけに大きく聞こえた。
二十メートルほど進むと曲がり角にぶつかった。道なりに進む。その先には、また同じような廊下が延々と続いている。
かわりばえのしない廊下。曲がり角だけがやたらと多い。
ぼくはみるみる心細くなった。
静かだ。耳が痛くなるほどシンとしている。なのに、なんだか気配を感じるのは気のせいか。障子のやぶれ目から、襖の隙間から、息を殺してこっちをうかがっているような気がするのは……ぼくが、臆病風に吹かれているせいか。
「メイズさん……」
『なあに』
「その……なにか、話しててくれないかな」
『あら。クスクス……それじゃあ、退屈しのぎにお話しましょうか。話題は、オノゴロ童子がどうやって生まれたか──なんてどう?』
「……知ってるの?」
『もちろん。言ったでしょう? 私は、なんでも知っているのよ。……ああ、そこは左ね』
指示されるままに、分岐を左に曲がる。メイズさんの声は続けた。
『淤能碁呂島の話は、ジンダイリアに聞いたはずよね』
「うん。淡路島のことなんでしょ」
『そう。この国に棲まう神々の始祖である、伊邪那岐と伊邪那美の夫婦神──その二柱が原初の渾沌から生み出した大地こそが、淤能碁呂島。ここで大切なのはね、ヒバリ。渾沌から生まれた、というところよ』
「渾沌……」
『渾沌とは無秩序。いっさいの理の通じない不条理そのもの。その中では天も地も、生も死も境界を失ってしまう。それは、裏を返せば、ありとあらゆるものを生みだす可能性を秘めているということでもあるわ』
「む、難しいな。なんとなくは、わかるけど」
『いいのよ。渾沌には、それだけ強い力があるということだけわかっていれば大丈夫。ただし、渾沌の力を正しく利用するというのは、簡単なことではなかったの。神々ですら、一度は失敗してしまったほど』
「そうなの? でも、淡路島は完成したんでしょ」
『島は、ね。失敗作だったのは、その島で生まれた最初の神……伊邪那岐と伊邪那美の、ひとり目の子供のほうよ。その神の名は、水蛭子。足腰の立たない子であったとも、骨のない、形の定まらない子であったとも言われているわ』
それを聞いて、ぼくはひどく落ち着かない気分になった。
どうしたって、リアの足のことを連想せずにはいられなかったからだ。
『伊邪那岐たちは、不出来なその子を海に流した。渾沌の地で生まれた子を、渾沌の海へと還したの。さっきも言ったように、渾沌は忌まわしい一方で、あらゆる富を生みだす強い力でもある。この国の人間たちは水蛭子を、海からやってきて富をもたらす、死と渾沌の神として崇めるようになったわ。水蛭子はときとして、えびすと同一視される。えびすというのはね、ヒバリ。ぶよぶよにふやけた水死体のことよ』
「うへっ。崇めるって……神さまを祀るとか、そういう意味でしょ。死体が神さまなの?」
『ええ。昔の漁師はね、海で水死体を見つけるといいことがあると信じていたのよ。魚が大漁になって、富み栄えるしるしだと考えていたの。それ自体は、他愛のないジンクスにすぎないのだけれど……その信仰の元になった、渾沌から富を引きだすという考えを、呪術を用いて実行しようとした一族がいた』
「リアのご先祖さまか」
『そうよ。今から百年と少し前……ジンダイ家の先祖は、この国で渾沌の力をもっとも色濃く残す土地、淡路島へと渡った。彼らはそこで、新しい水蛭子を作ろうとしたの』
なんて現実感のない話だろう。
あの夜からずっと、ぼくは現実感を失ったままでいる。まるで全部が悪い夢みたいだ。いや……今いるここは実際、夢の中らしいんだけど。
『欧州のオカルトに精通した迷路職人アリマダイドーや、美国から呼びよせたウェイトリという魔術師の力を借りて……ジンダイ家の者たちは、渾沌の力を人間の母胎に宿らせることに成功したわ。ただし、母親の腹を食い破って生まれてきた、その子供は──彼らが期待したようなものではなかった』
「そ、それが……オノゴロ童子?」
『そうよ。誰にも望まれずに生まれた、渾沌の落とし子……』
あれの母親が……人間だって?
ありえないと思う一方で、なんだか納得してしまう自分がいた。
オノゴロ童子につけられた、ぼくの右手のアザ。
あれは、人の手形にそっくりだ。それも、小さな子供の手形に──。
『ところで、ヒバリ』
「う……うん?」
『三秒後に後ろで大きな音がするけれど、驚いて急に走りだしたりしないようにしてちょうだい。転ぶわ』
「は?」
一、二……三。
バリバリバリバリッ!
突然、背後で障子の破れる音がした。
振りかえったぼくが見たのは、障子紙を突き破って伸びた、二本の腕。そして。
枠の木を押し割って現れた、土気色をした女の顔だった。
女は、ねじるように頭を動かすと──白くにごった目で、ぼくを見た。
「う、わ……わあっ」
ぼくは反射的に駆けだした。
ただでさえ暗い廊下を、後ろを気にしながら走ったせいで、ぼくは、行く先が急な下り階段になっていることにまったく気がつかなかった。
勢いよく階段を踏みはずしたぼくは、そのまま一気に下まで転げおちた。
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