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社会人となって、一年が過ぎようとしていた。ある大手のメーカーに就職した僕は、それなりに仕事をこなし、それなりに上司と上手くやり、まあそれなりの社会の歯車として生きていた。特に何のトラブルもなく、だからと言って特別楽しいこともなく、可もなく不可もなくという言葉がしっくりくる日常を過ごしていた。 彼女からメールや電話が来ることはなかった。そんなことをしなくても、ネットで検索すれば、彼女の現状を知ることができた。映画化された彼女の小説は、大ヒットし、世間に一気に名前が知れ渡った。二作目の小説も売れ行きは好調みたいで、作家としての道を順調に歩んでいた。彼女と僕は、売れっ子作家と一般人、それ以上でも以下でもなく、きっとこれから先ずっと、お互いの世界線は並行のまま交わらずに進むことだろう。 ある朝、テレビをつけると、彼女のインタビュー映像が流れていた。久しぶりに見る彼女は、まるで別人だった。もう五年も会っていなかったから、大人になっているのは当然だろう。それだけではなく、顔つきも、プロ作家の落ち着いたものになっており、違う世界に生きているんだなということを身に染みて感じた。 「なぜ小説を書こうと思ったんですか」 彼女に対して、男性記者がそんな質問をする。 「最初に小説を書こうと思ったのは、現実逃避です。高校生の時、試験勉強が嫌すぎて、ノートに小説を書き始めたんです。それが意外に楽しくて、はまっちゃったんです」 「へえ、そうなんですね。執筆を続けて、嫌になったことはありますか」 彼女は微笑んで、「たくさんあります」と答えた。 「ストーリーが思いつかなかったりとか、上手く筆が乗らなかったりとか、執筆をやめようかなって思ったこともあります」 ただ。 彼女が真剣な表情を見せる。 「いつも、私の小説をほめてくれる人がいたんです。その人がいたから、私はここまで執筆を続けることができました」 「へえ。良いお話ですね。それでは最後に、この先の目標を教えてください」 「はい。誰か一人でも良い、心を震わせるような小説を書いていきたいです」 「ありがとうございました」 そこでテレビの映像が切り替わり、違うニュースとなった。僕は呆然と、テレビを見つめていた。 僕のことなんて、すっかり忘れていると思っていた。人気作家としての道を進み、それどころじゃないと思っていた。 「あの頃と、変わってないな」 僕は思わずつぶやき、一人で笑った。
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