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第1章:移動

 車に傷があった。洗い物の最中に、皿を立て続けに割った。長年墓参りに行ってなかったことを思い出した。太平洋上の台風が熱低に変わりつつあると聞いた。そして有給休暇は余っていた。私が今新幹線の指定席に座っている理由をまとめると、そんなものだった。  車の傷が心の中でずきずきと痛みを発している。助手席側のドアに長くついたひっかき傷で、実にみっともないものだった。車を最後に使ったのは2日前に仕事から帰った時で、下車する際、辺りはもう真っ暗だった。だから運転中に実はどこかに擦っていて、それに気づいたのが偶然今日だった、ということだけかもしれない。  売店で買ったお茶のペットボトルを開ける。一口飲んでからドリンクホルダーに突き立てる。もう発車まで間もなくなのに、平日なので周囲の座席に客はそれほどいない。それでも窓の向こうでは色んな人が忙しなく歩いているのが見えた。窓の縁の部分に肘を置く。掌で自分の頬を支えようとする。だが手の甲の部分に痛みが走った。その痛みに思わず顔をしかめ、代わりに私は頭をシートの方に押し付ける。  一体何で傷がついたのか。考えてもどうしようもないことをもう一度考える。いつもの道を通っていただけだ。狭いところもほとんどない。でも心当たりは、ないことはない。渋滞にはまった時、自転車に脇をかなり無理やり通り抜けられはした。暗かったから自信はないが、見覚えのある制服を着ていたようには思う。大学受験の実績がよいとネットで評されている、そこそこの進学校のものだったはずだ。  彼起因の傷かどうかは全く判然としない。でもちっと小さく舌打ちをしてしまった。自転車を歩道から追い出したこと自体は悪くないと思う。でも車道における交通マナーは悪化する一方だ。  車が流れ始めてしばらく走ったら、私の車はその高校生に追いついた。そして軽々と抜き去る。他人の車に傷をつける、少なくともそう疑われるぐらいに急いで漕いでも、エンジンとガソリンの力には敵わない。心に暗い疑念が湧いてきた。改めて私が追い越すときに、彼が何かイラついていて、わざと傷をつけたのではないかと。何の確証もないし、自転車側にとっては危険なだけ。愚にもつかない妄想なのに、私の被害者意識は大きく自分の中で育てていってしまう。  高校生男子なんて、馬鹿の象徴みたいなものだ。意味なく騒ぐし、残酷なことをする。体は大人だが、心は子供。少なくとも自分が高校生の頃はそんなものだった。学生という身分にいるんだから、そのこと自体は仕方のないことなのだろうけど。  やめよう。周囲に聞こえないように小さく呟く。真実は今となっては知る術もなかった。男子高校生が仲間内で語れる武勇伝を作りたかった。抜き去ったばかりなのに、再度自分を軽々と抜き去ろうとしている貧弱な軽自動車にイラついた。偶然ポケットに何か鋭利なものがあった。そして魔が差した。こういう可能性はなくはないのだろうけど、全て自分の想像の産物に過ぎない。むしろ、そうでない可能性の方がよほど高かった。愛車に対して傷をつけられたから、ナーバスになっているだけだ。ドリンクホルダーのペットボトルを再度手に取る。口にお茶を流し込むのと発車メロディが鳴るのはほぼ同時だった。  その発車メロディが以前乗った時とは変わっていることに気がつく。何だかそのことにげんなりした。思い出されるのは自分が今住んでいる家の周辺、そして故郷のことである。前者の方はここ10年、ほぼ毎日見ているのですぐに詳細な絵が浮かんでくる。引っ越したばかりの頃には畑がまだ少しはあった。誰が住んでいるかも分からない、蔦だらけの廃墟のような家もあった。だが、それらももう大手建設会社の手によって撤去されている。代わりにできたのは、明らかに高所得の人しか住めないような、豪華な規格の家ばかりだ。それらは築5年が過ぎた今でも、幸せを家という形で表現しました、と言わんばかりの存在感を放っている。その側を通るとき、私は偶に自分がとてつもなく「間違った」存在になったような気がしてしまう。  今から向かう私の故郷はどうだろうか、と思う。住民票に本籍地としては登録されているけど、あまりに離れすぎてしまったため、心理的にも距離ができてしまった故郷。ここ8年ほど訪れてもいない故郷。変わっているのか、変わっていないのか想像がつかなかった。都会に比して田舎の変化は往々にして遅い。少なくとも私はそう思っている。古いものから元気が失われていくのは止まらないけど、新しく参入するにしてもコスパが悪いので中々世代交代が進まないとは聞いたことがある。ちょっと寂れただけで、案外原型はとどめているかもしれなかった。そう思って、少しだけ心を鎮める。  近郊の駅で何人か人を乗せた後、新幹線は本格的に長距離移動を始める。富士山が見たい、と思い少しだけ窓の外を注視していたが、すぐにトイレに行きたくなった。車両前方のニュースを眺めつつ、立ち上がる。台風情報が知りたいな、と思った。  車両を出て、用を足す。揺れるからかなりやりづらかった。手を洗って、車両に戻ったところで、足に軽い衝撃を覚える。下を向いた。子供が1人こちらを見上げている。身長差で全く見えなかったから蹴ってしまったか、と焦った。しかし自動ドアが開くと同時に走って向かってきたのはこの子だと、理性は判断する。だから、ごめんね、大丈夫、と言いそうになったのを抑えた。  注意すべきなのかどうか少し迷っていると、母親と思しき人が走り寄ってきた。すみません、と謝りながら子供の手を握る。そして私の横をすり抜けてトイレの方に向かった。口では謝っているけど、目にかすかに敵意が滲んでいて、正直むっとする。その後、自分がそんなことに腹を立てられるほど大した存在か、と心中突っ込む。でも、そんな風に理性で自分の気持ちを丸め込もうとしても、わだかまりは心の中で塊となって消えなかった。  普段生きている空間から高速で離れつつあることで、気持ちが不安定になっている。だから過剰に反応してしまうのだ。そう自分に言い聞かせてみるものの、しっくり来ない。自分の心の中を1分ほど探ってみたが、違和感の正体に気付けない。ポケットからスマホを取り出して、行先の天気を調べる。今は雨。しかも強風のマークがついている。家で自分が見ていた天気予報が関東のものだったことに初めて気がついた。思わず、バカ、と声に出して自分を詰りたくなる。旅をするのが久し振りといっても、下準備がお粗末すぎた。胃のあたりに冷たい感触を覚えながら、さらに調べる。故郷へと向かうローカル線の運行状況は今のところはまだ大丈夫だ。でもこれから運休する可能性はある。SNSで路線名を入力して検索する。こちらの検索結果はやや悲観的な意見が目立った。出勤せざるを得ない社会人の憂鬱な書き込みがいくつか投稿されている。  腹立たしさを覚えながら、スマホをスリープ状態にする。目を上げると雨粒が窓に当たり始めていた。見ていると自分のうっかりを咎められているような気がしてきたので、ブラインドをすることに決める。手を動かしたところで新幹線がトンネルに入った。車内側の方が相対的に明るくなり、窓は先ほどより鮮明に車内側の様子を映す。窓を閉めようとしている男は紛れもなく初老の域に入っていた。ブラインドを慌てて閉じる。心臓が早鐘を打っていた。自分の顔なんていつも家の洗面所で見ているので、変な奴だと自分でも思った。でも考えてみれば最近鏡を覗き込む時、私は少し心理的に身構えることが多くなっている気がする。  老いを直視するのは、辛い。死神に一歩一歩近づいていることを嫌でも理解する。  車両のドアが開いて、先ほどの母親が入ってくるのが見えた。私のいる座席からでは位置的に見えないが、子供の方は騒いでいる。新幹線は初めてなのだろう。大分テンションが高かった。叫声は聞こえるし、ジャンプしたのが足音で分かる。母親の表情を見てみたくなったが、また睨みつけられるのが怖いのでやめた。2人が私の座席の横を通り過ぎる。つむじのあたりに視線を感じたような気がした。この野郎、次うちの子に危害を加えたら承知しないぞ、と視線で刺してきている。その視線を浴びているうちに、少し冷静な自分が唐突に告げてきた。大切にされる時代はとっくに終わっているのだと。  心のしこりの原因が分かった。たとえ悪いことをこちらがしていなくても、この社会において子供とおっさんでは重要度や優先順位が違う。加齢に伴って、自分の存在価値は昔に比べて目減りしているのだ。年齢による差別だと感情は叫ぶ。でも理性の方は叫んだところで無駄だとため息をついている。私だって何を買うにしても出来れば新品がいい。  新幹線は走る。途中名古屋で人の出入りがあったが、入ってきた客のレベルが私を苛立たせた。ぺちゃくちゃと喋っている女2人。泣きわめいている赤ん坊を連れている夫婦。そして明らかに、今どきの言葉で言うと、陽キャに分類されるのであろうカップル。赤ん坊とカップルに苛立つのは、明らかに自分の方に問題があった。車両は発車する。10分もすると静かになるか、と思ったが、女も赤ん坊も相変わらずうるさいままだった。通路を挟んで真横に座ったカップルも喋っている。こちらは声量を抑えているので、まだましだが、それでも3つも音源があると鬱陶しい。  うるっせんだよ、少しは黙れよ。  昔、通学途中の電車で怒りの声を上げた中年のサラリーマンが頭をちらついた。そんなことをする存在に自分もなってやろうかと一瞬思う。でも、赤ん坊の方は言ったところでどうにもならないと考え直した。赤ん坊と一緒に乗ってきた夫婦の姿は座席の陰に隠れて見えない。せめてあやす努力だけはしていてほしかった。だけど、こう考えること自体が独身男の傲慢なのかもしれない、と自分を嗜める。あやしてもどうにもならない子供もいる。あやせばあやすほど構ってもらえると勘違いしてより騒ぐ子供もいると聞く。  それでもやはり癇に障るものは癇に障るのだ。  天気予報を時々確認する。まだ電車の運休の情報はない。でも、通勤通学時間帯が終わったため、SNSの書き込み数が顕著に減っている。現地に行ったら、運休しているかもしれないと覚悟を決めていると、突然横から大勢の人の歓声が聞こえた。  半ば反射的に左を向く。陽キャカップルの男の方も視線に気づいたのか、こちらを見てきた。しきりに頭を下げている。スマホにイヤホンをちゃんと刺せていなかったのだろう、端子の部分をつまんでいた。女の方は男に対して責めるような視線を向けていた。今どきの若者がワイヤレスイヤホンじゃないのか、と私は驚く。  観ていたのはスポーツの試合なのだろうな、と推測したところで嫌な予感がした。何かが記憶の底から浮上し始めているのを感じた。やめろ。私は意識してそれから逃れようとする。慌てて手に握っていたスマホのスリープ状態を解除した。しかし、そこから何をすればいいのかが分からない。どうすれば逃げられるのか、と考えること自体が、より強く、今復活しようとしているものに対して強い力を与えてしまった。指先を画面上で所在なくふらふらさせている間に時間切れとなる。  遠い昔のことなのに、記憶はいやに鮮明だ。土の匂い、痛めた手首、自分の欄に並んでいる無数の黒星。ぱっぱっぱっと、次々に頭に画像が浮かんでいく。大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせた。嫌な記憶に苛まれるなんて、よくあることだ。対処方法は心得ている。ただじぃっと耐えるだけでよいのだ。そうすればいつかは逃れられる。しかし、いつもよりやや深めに落ち込んでいる自分に気がついた。今日は細かい失敗が続いていたし、横に座っているのが明らかに朗らかな陽キャというのもある。もう名前も思い出せないけれど、土俵で何度も倒れ伏す私を見下していたのは、ああいうタイプの人間達だったはずだ。  今になって思い返してみると、校内に土俵があるとは言っても、相撲が一時ブームになったのは不自然だ。フィジカルの強い子供たちがそれ以外の子たちをいじめたかっただけなのかもしれない。  被害妄想をこじらせていると、いつしか私の意識は新幹線内の喧騒からも、土俵からも離れていった。浮かんでくるのはひどい記憶ばかりである。置いていかれた持久走。人前で叱責された時のこと。職場の飲み会で「いい人ですね」とだけ褒められたこと。  加齢とともに肉体も衰えたはずなのに、今朝、車の傷に激昂した時のように何かを殴りつけてイライラを発散したくなってきた。そんな自分に危機感を覚え、気を紛らわすべく私は前のテーブルに置いていた弁当に手を伸ばす。昼には大分早いが、朝も急かされるように出てきたのであまり食べていない。腹は十分に減っていた。それにこれ以上、拳を痛めたくはない。  開封し、箸を割りいくつか口の中に入れてみる。肉主体の弁当で、冷めても美味しいように味は濃かった。直近の健康診断の成績は悪くなかったが、少しだけ不安に思う。何でも構わずに食べられていた時代が懐かしかった。けれど、その時代にさっきの苦い経験が詰め込まれていると思うと、そんなノスタルジーもほとんど吹き飛ぶ。  美味しいと脳は判断しているはずなのに、その喜びと自分の心の間に1枚薄い壁が用意されているような気がした。あまりいい食事ではなかったな、と何故か申し訳ない気持になりながらゴミをまとめる。車両外に用意されているゴミ箱に捨てに行っていると、喋り続けている女性たちの横を通り過ぎる。内心では睨みつけたかったから、そっちの方向を向かないようにするのに努力が必要だった。ゴミを捨てて、再度通過してきたところを戻った。その時に陽キャカップルの顔をつい見てしまう。というより自然と視界に入った。すぐに目を逸らす。自分がどんな顔をしていたのか、どんな表情を見せていたのか。恐怖に近い感情を抱きながら自分の席に座った。  まだ、目的地まで少し時間がある。  スマホをいじるのにも飽きて、何か口に入れるのも効果が薄い。フラッシュバックは地味にまだ続いていて、ひたすらにだるかった。一生こんな気持ちを抱え続けるのだろうか、と急に不安が生まれる。でも、数時間前まで私はくだらないテレビを観て、それでもそれなりに笑ってはいた。横浜からお取り寄せしたチョコレートケーキを食べて、幸せを感じてもいた。そんな日常のちょっとした出来事が自分の傷にかさぶたを施してくれるはずだ。それは決して根本的解決ではないのかもしれないが、けれど、この種の問題に根本的解決をとれる人間なんてそうはいないだろう、と自分を慰める。  だらだらと考え事をしながら、時間が過ぎていくのを待つ。加齢によって時間の進み方は早くなったが、つまらない待ち時間を長く感じるのは一向に変わらない。ようやく目的地の最寄にいることを知らせるアナウンスが車両内に流れた。私はのろのろと立ち上がって、自分の旅行用の荷物を頭上の棚から降ろし始める。  いくつか物が車両の床に散乱した。バカ、思わずそう口に出しそうになる。旅行鞄のジッパーを閉め忘れていた。お茶のペットボトルを取り出す前は閉めていたはずなので、その時だ。物が床にぶつかった音に釣られた何人かの目が私に向けられるのを感じる。羞恥心で顔に血液が集中し始めた。慌てて落ちたものを拾っていく。歯ブラシセット、スマホの充電器、いつも使っているアレルギーの薬。  屈んでいる私の目の前に三角形に折りたたんだビニール袋が差し出された。目を上げる。先ほど音漏れをさせていた陽キャだった。よく考えれば普通に発生しうる、しかし唐突なそんな優しさに、何とかかんとかお礼を言って受け取る。荷物をまとめて、逃げるようにデッキの方に向かった。徐々に新幹線は減速していく。何か心に痛みのようなものを感じた。昔から自分の心の動きをうまく表現することが苦手な方なので、その痛みの原因が中々分からない。ぼんやりと考えている間に新幹線は完全に停車した。プシュッという音とともに扉が開き、私は鬱陶しいものが詰まっていた車両から脱出する。次に乗る電車もきっと似たようなものなのだろうけど、とりあえず一旦逃れることができた。しかし、外に出た瞬間身を包んだのは生ぬるい空気だったので、不快なものから不快なものへ、乗り移っただけなのかもかもしれない。  痛みの原因に思い当って、はっとした。  自分で気を付けていれば防げたはずのミスのリカバリを、内心敵意さえ抱いていた、「鬱陶しい」陽キャがやってくれたから、何となく気づまりなだけなのだ。  舌打ちする。本当に何もかも上手くいかない。羞恥心と敗北感に耐えていると、拳に痛みが走った。いつの間にかものすごく拳を強く握りしめていた。下りエスカレーターで改札のある階に到着し、切符をポケットから取り出そうとする。しかしお茶を買う時に受け取っていたレシートが切符と混じってしまい、少しだけもたついた。ちっと、後ろから舌打ちされたと思ったら、私の脇を早足でスーツ姿の男性が追い越していく。いつの間にか、私は邪魔でしかない存在になりさがっていた。
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