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第3話『風の行き先』
風音が帰ってくるまでに晩ご飯の支度を終わらせるのが日課。17歳の風音は、細身の身体のどこに蓄えているのかと不思議になるくらい、よく食べる。YouTubeやSNSなどで見よう見まねで覚えた料理。母の料理は……覚えているけれど、同じものは作れない。もっとお手伝いをしておけば良かった、と両親を亡くした後で後悔した。私の料理を風音は“美味しい!!”と言って食べてくれる。彼女ができたら、その子が作った料理もそんな風に食べるんだろうな。そんなことを考えたら、嬉しい反面、寂しくなった。いつか風音もこの島を出ていくんだと思う。本土で恋人を見つけ、向こうで結婚して、新しい場所で生活していく。いつまでも一緒にいられない。
『そういえば……』
航さんも、私の作る料理を“美味しいね”と言って食べてくれた。特にカレーがお気に入りだったっけ。
また航さんのところへ思考が行き着く。そんな今日の晩ご飯はカレーだ。航さんも、風音も大好きなカレー。グツグツと煮込む音に乗って、カレーの香りが台所に広がる。
煮込んでいる間にサラダの用意をする。炊飯器が、米が炊き上がったことを教えてくれる。準備はできた。あとは風音が帰ってくるのを待つだけ。
30分後に、
「たっだいまー!!」
大きな声が響く。ガタガタと玄関ドアを開け、風音が帰ってきた。
「おかえりー。ご飯できてるから着替えてきて」
はぁーい!!と大きな返事が家の奥から聞こえてくる。階段を昇り部屋に鞄を放り投げ、制服から部屋着に着替える間中、ドタドタと2階から音がする。もう少し静かにすればいいのに、と思いながらも、いつもの音に安心している自分もいる。
台所の食卓にカレーとサラダを並べる。着替えた風音が私の向かいに座る。
「カレーじゃん!!やったぁ!!」
いっただきまぁーす!!大きな声でそう言ってから、カレーを口に運ぶ。
「うっま!!姉ちゃんのカレー、ほんっと美味いよな!」
「ありがと。すごく美味しそうに食べてくれるから、嬉しいよ」
学校でこんなことがあった、先生にこんなことを言われた、光瑠がこんな面白いことをした……晩ご飯の時は、風音の話を聞くのが楽しみだった。風音の機嫌も体調も、この会話で何となく分かる。光瑠くんと喧嘩した時は、光瑠くんの話をしなくなる。学校で嫌なことがあった時は、明日学校に行きたくないと言う。体調が悪い時は、口数が少ない。風音との大切なコミュニケーションの時間。変わり映えしない島での生活とは違い、本土の学校で過ごす風音の話しは、毎日ドタバタで賑やかで面白かった。
台所を片付け終えて、やり残していた仕事を片付ける。どうしても今日中に返信しなくてはならないメールが残っていた。民俗学の観点から、海神神社について調査しているグループへのメール。送信をクリックし、大きく伸びをした。本日の仕事、終了。それを見計らったかのように、お風呂上がりの風音が一枚のプリントを持って入ってきた。
「これ。ご飯の時に出すの忘れてて。無理だったら……別にいいよ」
学校からのお知らせだ。無理だったら……参観日は、高校は無かった気がする。体育祭も保護者が見に来たような記憶はない。
「あ……もうそんな時期かぁ」
三者面談のお知らせだった。7月末、夏休みの期間に実施される。自分の三者面談を思い出す。高校2年生の夏休み。まだ両親は生きていて、母が来てくれた。同じ高校に通う島の同級生は3人。沙耶子、雪南ゆきな、茜あかね。私が一番仲が良かったのは、沙耶子。優しくておおらかで、いつもにこやかに微笑んでいる子だった。本土の子達とあまり馴染めなかったのも私と沙耶子だった。雪南雪南と茜茜は流行に敏感で、フェリーの最終便の時間まで本土で遊んでくるような子達だった。先生はそんな3人の名前を挙げて話し出した。
「沙耶子さんは島を出て進学。雪南さんと茜さんは島を出て就職ですって。時海さんは島に残りたいみたいだけれど……残ってどうするのかしら?あ、島から通うってこと?お母様、何か聞いてますか?」
まるで島に残ることが悪いことであるような言い方をされて、私は少し落ち込んでいた。学校にだって島から通ってたんだから、仕事にだって通える。そう思っていた。実際、島から本土の会社へ通っている人もたくさんいた……あの頃は。
「私は、時海から島に残りたいと聞いております。本土で生活し、そこで学び得ることもたくさんあるかと思いますが、時海が島に残りたいと言うなら、私たちは反対しません。島に住んでいるからこそ、得られるものもありますから」
そう返す母に、先生はただ頷いただけだった。本土に出ない子には興味がないような態度に見えた。その数ヶ月後、両親は亡くなった。両親を失って、私は島に残る理由を手に入れた。そんな理由、要らなかったのに。
「大丈夫、行けるよ。仕事はいくらでも時間調整できるから。それとも、私に来てほしくない理由でもあるの?」
冗談で言った言葉に、風音は笑ってくれなかった。ただ俯いて気まずそうにしている。
「風音?」
「姉ちゃん、オレ……高校卒業したら、島を出たいんだ」
いつか風音もこの島を出ていくことは分かっていたけれど、もっともっと先のことだと思っていた。あと1年半くらいで、風音が島から……この家から出て行ってしまう。突然突きつけられた現実に動揺し、うまく返事ができない。
「いつ言おうか悩んでたんだ。姉ちゃん、絶対に悲しむから。でも、オレ……」
「いいよ。風音には風音の好きなように生きる権利があるんだから。私のことは気にしないで。1人でも大丈夫だから。三者面談、いつがいいかなぁ。7月28日で回答してもいい?」
無理に明るい声を出した。あの日、海神神社の守り人になると決めた日に私は決めたじゃないか。
【私は島から出られなくてもいい。その代わり、風音は何をしようと何処に行こうと自由にしてあげてほしい】
私は島から出られない。風音は名前のとおり、どこにでも行ける自由な風になる。
「ありがと。明日提出するね」
おやすみ。私の手からプリントを受け取り、風音は2階の自室へ行った。私はノロノロと立ち上がり、お風呂へ向かう。今日の出来事を何もかも洗い流してしまいたい。航さんのことも、風音のことも、私の過去も……全部。
浴槽の中で大きくため息をついた。ほんの少し開けた窓から波音が聞こえる。1人になった時、この波音に飲み込まれてしまうんじゃないか。そう思うほど、今夜の波音は大きく聞こえた。
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