第4話『海を渡る』

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第4話『海を渡る』

 風音はいつも通りに笑ってくれる。高校を卒業したら島を出たい、と告げられたあの夜がまるで夢だったかのように。フェリーに乗り込み、笑顔で手を振る。私は浜辺から手を振り返す。そんな毎日がこれから先も永遠に続くような気がした。途切れなく、寄せては引く波のように。 『それこそ夢だ……分かってる』  心で呟いた言葉にため息がこぼれる。誰だって大人になる。自分で決めた道を歩いていく日が来る。私だってそう。この島に残ると決めた。  風の音と波の音が大きくなる。フェリーはもう遠く、海中鳥居も通り過ぎていた。  島の夏は静かに始まり流れてゆく。生き生きと枝葉を広げた木々に、色鮮やかに咲く花々。それらに夏の強い日差しが照り付け、雰囲気だけは南国リゾートのよう。それでも島には人が少ない。時折訪れる観光客は、浜辺の美しさと海中鳥居には感動するが、その他には何もないことに落胆して帰っていく人がほとんどだ。海神神社まで参拝しには来てくれるが、ここでは御神籤もお守りも売っていない。白い鳥居と古びた拝殿があるだけ。島に訪れた挨拶程度に参拝していくだけ。  私は今日も境内の掃除をしながら、ふらりと訪れる観光客に一喜一憂している。こうして訪れる人の中に、航さんがいるんじゃないか。そう思ってしまう。そんな再会もまた、夢みたいなことだと分かっているのに。  そんな夏を迎え、あっという間に日々は過ぎて行き、風音は夏休みに入った。昼過ぎまで寝ていたかと思えば、光瑠くんと暗くなるまで浜辺で遊んでくる。宿題をしている様子はない。こんがりと日焼けした肌が眩しい。それでいい、と思う。島での楽しい思い出を、抱えきれないくらい作って旅立ってほしい。  そして、迎えた7月28日。三者面談の日。本土までのフェリーの切符を握り締め、私はフェリー乗り場にいた。 「姉ちゃん、大丈夫?やっぱりやめる?先生にはオレからうまく言っとくからさぁ」  本土へ出るのは高校卒業以来、およそ9年ぶり。行くと決めたのは自分だが、いざその日その時が来ると、本当に島から出てもいいのか不安になる。 「だ、大丈夫だよ。海神神社にもちゃんとお参りしてきたから。神社のことは今日は遠谷さんにお願いしてきたし。風音の姉として保護者として、三者面談は行くよ」 「ならいいけど。姉ちゃん、すっごい緊張してるみたいだから。本土に行くの、久々だもんね」  そんなことを話しているうちに、乗船時間になる。揺れるタラップを渡り船内へ入る。等間隔で並ぶ座席。先に乗り込んだ風音が窓際の席を確保してくれていた。私も高校生まではこうしてフェリーで本土の学校へ通っていた。窓際の席に沙耶子と並んで座っていた。その後ろに雪南と茜が座る。いつも同じ席だった。懐かしい光景が浮かび、ほんの少しだけ緊張が和らぐ。 「夏休みなのに制服ってダルいよなぁ。暑いし」  夏服の開襟シャツの胸元を掴んで仰ぎながら風音が言う。日に焼けた肌に、白いシャツが映えて眩しい。 「学校に着いたらそんなことしないでよ」  やんわりと注意をした所に、出航のアナウンスが重なる。ゆっくりと景色が流れていく。波をかく音とエンジン音が混ざる。煌めく海と晴れた青空の中に、白い海中鳥居が現れ、後ろへ流れていく。穏やかな風に紙垂が心地よさそうに揺れていた。大丈夫。海神様は怒っていない。そう思えたところで、やっと気持ちが楽になる。三者面談で風音の先生と話すことよりも、この島を出ることが一番の緊張だった。  三者面談は問題なく終わった。学校での風音は生活態度も授業態度も問題なく、誰よりも仲間思いでクラスのリーダー的存在であることを担任から聞かされた。 「風音くんの明るさと活発さで、うちのクラスは他に比べて活気があるんですよ。風音くんがリーダーとしてみんなを引っ張っていってくれてるんです。授業中もちょっと騒がしい時があるのですが……まぁ、成績には問題ないですし、これなら希望の進路に進めるかと」  風音の担任は30代半ばくらいの穏やかな男性だった。夏休みであっても、きっちりとスーツに身を包み、爽やかな微笑みを浮かべている。静かに話す先生だった。 「風音くんは大学進学希望なんだよね。島から通うの?それともこっちに引っ越すのかな?」 「オレは島から出るつもりです。1回くらいは島の外で生活してみたいし、姉ちゃんも行ってきていいよって言ってくれてるし」  風音の言葉を聞いて、先生は少し驚いたようだった。軽く目を見開き、次いで私の様子を伺う。私は静かに頷いてから答える。 「風音には、島の外に出て自由に生きて欲しいんです。いつか帰ってくる場所、島はそれでいいと私は思っています」  私の言葉を聞いて、先生はほっと息をついた。 「そうですか。島から出たい、出したくないで揉めたという過去の話を先輩教師から聞かされていましたので……お二人の間で意見がすれ違ったらどうしようって不安だったんです。そっか、風音くんは島を出るんだね。お姉さん、でしたよね。1人残していくことは心配じゃない?もっと島から近い大学にしようか?」  そういうことか、と納得する。確かに十数年前……この先生の先輩に当たる人たちの頃は、島から出る出さない問題で大変だっただろう。でも今は違う。若い世代は皆、島から出たがる。そして帰ってこない。島に残る方が珍しくなってきている。 「そりゃあ心配なのは心配だけど……でも、オレは自分の進みたい道に進むって決めたんだ。それが姉ちゃんのためにもなるし。島の外のことを知った方が、島のために何ができるか分かるかもしれないし。今のままの進路でお願いしますっ!」  お願いします、と私も一緒に頭を下げる。風音の頼もしさに、涙が滲む。いつまでも子供だと思っていた。ずっと私が支えて面倒を見なきゃいけないと思っていた。こんなに大人になっているなんて……嬉しさと同時に寂しさが襲う。私の手から離れていってしまう。本当に、手が届かない場所へ行ってしまう。いつまでも航さんのことを引きずり、風音に縋り、島から出られない理由を全部海神様にしてしまう、そんな私の方がずっと子供だ。  帰りのフェリーに乗る頃には、空はもう夕焼けだった。三者面談は昼前には終わっていたのだが、せっかく島から出たんだから!と風音に連れられ街に出ることにした。数年ぶりの街は別世界だった。立ち並ぶ店も売り物も、街をゆく人たちも島とは全然違う。たった数年でここまで変わってしまうことに驚いた。島は変わらない……いや、退廃しているというのに。  本屋に入り、仕事で使えそうな本を数冊購入した。ふと視線を上げた先に、スーツ姿の男性を見つけた。華奢な体躯に、色白の肌、黒縁の眼鏡の横顔。心臓が大きく跳ねる。航さんだと思った。声をかけようと踏み出したところで、その男性がこちらを向いた。航さんとは似ても似付かぬ顔立ちだった。そうだ……こんな所にいるわけがない。たまたま島から出てきた日に、立ち寄った本屋で偶然に再開するだなんて……また夢みたいなことを考えている。  本屋を出たところで風音が私をゲームセンターへと引っ張っていく。一緒にプリクラ撮ろう!!と言われて思わず立ち止まる。 「そんな、スマホで写真撮ればいいじゃん」 「姉ちゃんが久々に島から出た記念!島じゃあプリクラ撮れないでしょ」  狭い撮影ブースに姉弟で並ぶ。風音が手慣れた手つきで機械を操作する。たった数年とはいえ、私が知っている機械より進化しすぎている。あっという間に撮影が終わり、落書きへと移る。盛れすぎている自分の顔に苦笑いが溢れる。印刷されたものはハサミ要らずのシートになっていた。風音と半分こする。 「これ、オレのお守りね!」  嬉しそうにそう言って、受け取ったプリクラを財布にしまった。私も倣って財布にしまう。大切な思い出が増えた。島に帰ったら見えるところに飾ろうかと考えた。  帰りのフェリーでは、2人並んで甲板で夕陽を眺めた。海も空もオレンジ色に輝いている。海中鳥居も夕陽を受けて橙に染まっていた。 「姉ちゃん、今日はありがと。来てくれて嬉しかったし、一緒に街を歩いたり買い物したりできて楽しかった。記念にプリクラも撮れたし。疲れてない?大丈夫?」 「大丈夫。私の方こそ、ありがとう。こんな機会でもないと、島から出ることはなかったと思う。楽しかったよ」  思い返せば、風音の中学校の卒業式も、高校の入学式も参加しなかった。島から出てはいけないと、自分に言い聞かせていたし、風音も誘ってこなかった。島に囚われた私が行くべきではないと心の中で思っていた。 「高校の卒業式、私も行っていいかな?」 「え?!来てくれんの!?やった!!」  まだあと1年高校生活あるけどね!そう言って風音は笑う。あと1年しかない……こんなに近くで風音と話せて笑顔を見れる時間の短さを思い、今度は本当に涙が溢れた。 「どうしたの?なんで泣いてんの?もしかして酔った??」 「何でもない。海風が目に沁みただけ」  海中鳥居の横を通り過ぎ、フェリーが港に入る。港でフェリーを出迎える人はたった1人。遠谷さんが、私と風音を見つけて大きく手を振ってくれていた。
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