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第1話『鳥居の向こう』
浜辺に立ち、本土へと向かうフェリーを見送る。小型のフェリーは波をかき分け、朝の日差しが煌めく海をゆく。白く佇む海中鳥居に波がぶつかり、光と共に跳ねる。甲板に出ていた少年が、私を見つけて大きく手を振る。
「ねぇちゃーん!!行ってきまぁーす!!」
大きく響く活発な声に、私も大きく手を振りかえす。この島に学校はない。子供達は毎日フェリーに乗り、本土の学校へと向かう。数十年前はこの島には今の倍以上の人が住み、小中学校はもちろん、小規模ではあったが商店街もあったらしい。今では学校跡地は更地となり、商店街だったであろう場所は廃墟群に近い。
見送る先でフェリーはどんどん遠く小さくなり、とある地点で海中鳥居の中にすっぽりと収まって見える。鳥居の向こうへフェリーが行く。海神が眠る島から、発展した街へと出ていく。
私が住むこの島は海崎島。海神信仰が強く残る小さな小さな島。島民人口は20人程。高齢化と過疎化が急速に進む島。この島には古くから伝わる話がある。
【海神様を怒らせると島が沈む】
まるで御伽話か都市伝説のような話だけれど、この島に住む人々は皆、この話を信じている。島に遺されている古い文献によると、遥か昔にこの島は海底に沈んだらしい。海神様の怒りに触れたせいで……。その後、海神様が怒りを鎮め心穏やかな眠りに就いたことで島は再び海上へと現れた。それが今の海崎島。
海風が海中鳥居の紙垂を揺らして通り過ぎていく。フェリーはもう遠く遠くに小さくなっていた。
私の名前は篠沢 時海、27歳。先ほどフェリーから手を振っていたのが弟の風音、17歳の高校2年生。
この島に子供は風音ともう1人、同級生の光瑠くんだけ。2人は高校も同じで、一緒にフェリーに乗り登下校をする。
かつては私もフェリーに乗り、本土の高校へと通った。同級生も何人か一緒だった。一番仲が良かった紗耶子のことを思い出し、きゅっと胸が苦しくなる。みんな、島を出て行った。きっともう戻ってくることはない。
島には昔からの掟があった。
【海崎島で生まれた子は18歳までは海神様の子である為、島から離れ住んではいけない】
この島で生まれた子供たちは、学校へ通うことや、それに付随する行事以外で島の外へ出ることは禁じられていた。風音と光瑠くんが生まれた年には、この島にはまだ産婆さんがいた。私のことも取り上げてくれた人だった。風音と光瑠くんが生まれた数年後、眠るようにこの世を去った。それ以降、この島で生まれた子供はいない。かつてこの島に住んでいた人たちは、皆島の外で結婚し、子供を産んだ。彼らが再びこの島へ来るのは、島へ残していった両親や親族を本土へ連れていく時。そうして何組もの世帯が島を離れていった。
今この島に残っている人たちは、島から離れたくない人と……私みたいにどうしても島から離れられない人だけ。
浜辺に背を向け、港を横切り、小高い丘の上に建つ家へと帰る。途中の坂道は、初夏の今頃から木々が両脇から覆い被さるように枝葉を広げ、木漏れ日が煌めく緑のトンネルになる。その坂の半ばで振り返ると、緑のトンネルの向こうに青く輝く海が見える。聞こえてくる波音に耳を澄ませて立ち止まる。穏やかな海。波が寄せては引いていく。あの日の暗く荒れ狂った海とは全く違う。
あの日、土砂降りの雨と吹き付ける強風の中を、この坂道を駆け降り港へと向かっていた。秋の初めだった。数日前から続く大雨と強風で木々の葉はすっかり落ちてしまっていた。10年前のあの日、私は高校生で風音はまだ小学校に上がったばかりだった。泣き叫ぶ風音を近所のおじさんに預け、私だけが港へ駆けた。坂の途中から見えた海は、いつもの明るく穏やかな優しい海ではなかった。暗く黒い海面が大きくうねり、凶暴な波が白く牙を剥いていた。港には警察に消防車両、そして救急車。漁港の人たちに数人の野次馬らしき人の姿もあった。人の輪をかき分け最前へ飛び出すと、荒れ狂う波間に船の先が見えた。波に揺られ、飲まれ、壊れ沈んでいく船が。
『お母さん!!お父さん!!』
叫び声は強風と波の音に掻き消えた。誰かに強く抱き止められ、その場から動けなくなる。離して……離してよ!!お母さんとお父さんがあの船に乗ってるの!!助けなきゃ。早く助けなきゃ……ねぇ、どうして誰も助けに行かないの?
こんな荒れ狂う海に助けに出れる訳がない事くらい分かっていた。それでも、ただ波間に沈んでいく船を見ていることしかできないのは辛かった。
沈没から1日経って、嵐は去り、荒れ狂っていたのが嘘だったかのように海は静かになった。船の残骸はいくらか回収できたが、両親の遺体は、あれから10年経った今でも見つかっていない。
「海神様のところへ還ったんだ。なぁ」
風音を預かっていてくれたおじさん、遠谷さんがそう言った。そう……海神様のところへ、最後に帰るべき場所へ還った。二度と戻って来れない場所へ行ってしまった。どうしてあんな天気の日に船を出そうとしたのか、それは今でも分からない。
坂を登りきり、そこから左へ伸びた道を数メートル歩いたところに私たちの家がある。高台にあるそこからは、海も海中鳥居もよく見える。白い尾を引いて、本土へ向かうフェリーも小さく見える。
ガラス戸を開け、コンクリート打ちっぱなしの玄関で靴を脱ぐ。ひんやりとした木目の廊下を歩き、右側にある台所へと入る。昭和レトロと言えば聞こえがいいだろうけれど、ただ古いだけのオレンジの花柄のクッションフロアが広がる台所。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出しグラスへ注ぐ。それを持って廊下左手にあるリビングへ行く。ここの床も昭和レトロなグリーンの花柄のクッションフロア。縁側の板間に座布団を運び、低い生垣の向こうに広がる海を眺める。
この島はどこからでも海が見える。どこにいても波の音や海鳴りが聞こえ、海風を感じられる。それくらい小さな島だ。
18歳を過ぎても、私はこの島を出なかった。風音がいるから出れなかったのも理由の一つだけれど、来年、風音が18歳になり高校を卒業しても、私はこの島に残る。
チリン、と海風が軒下の風鈴を揺らす。見上げると晴れ渡った青空に白い雲がふんわりと浮かんでいる。夏の空が広がっている。
私はこの島から出られない。海神様に囚われてしまったから。あの日、両親が海神様のところへ還ってから。両親は海神様の神社を守っていた。2人が亡くなって、神社を守る人がいなくなった。神社が荒れ、海神様の怒りに触れることを恐れた島民達は私に言った。
「お前が海神神社の守り人になるんだ。そうすれば海神様がお怒りになることはない」
条件付きで、私は海神神社の守り人になることを引き受けた。
【私は島から出られなくてもいい。その代わり、風音は何をしようと何処に行こうと自由にしてあげてほしい】
それが私が出した条件だった。名前の通り、自由にどこにでも行ける風のように、風音には生きてほしい。この島に、海神様に囚われるのは私だけでいい。
鳥居の向こうへ、私はもう行けない。
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