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「大丈夫です。お若いですし、普通の人と同程度にちゃんと回復しますから」
外科医の笑顔が、折れかかっていた僕の心に最後の一撃を与えた。人間の心ってこんなにも脆いんだと知った。骨や靭帯より遥かに脆い。だって他人の『たった一言』でこうも容易く砕け散るんだから。
慣れない松葉杖を横に置き、待合室で親父と並んで長椅子に座る。『普通の人間と同程度』。もう、僕に選手として価値はない。
「……すまねぇ、親父」
それは蚊の鳴くような情けない声で。僕は生まれて初めて他人に謝った。大規模回転寿司チェーンがひしめく中、個人経営の寿司店では家族を養っていくのさえ容易ではなかったろう。そこから更に僕の寮費やレース経費を出していたんだ。無理をさせていたのは、言わなくても理解ってんだよ。
だからさ。だから……負ける訳、いかねーだろ。そんなのよ。
なのに……この無様をどう詫びればいいんだ? つまんねー意地張って、今までの苦労を全部パーにしたんだぞ? ……頼む、誰かその詫び方を教えてくれ。
「気にすんな」
親父の手が、僕の五分刈り頭にぽんと置かれた。ごつい、職人の手だった。
「お遊びじゃ済まされねーレベルのスポーツなんだろ? 『そういうこともあるぞ』って言ってたんだ、家ではな。だから覚悟はしてたさ」
そう言う親父の声は、それでも残念そうだった。
「まぁ何だ、五輪の100メートル決勝でお前が走るのを現地で生観戦するってぇ夢は消えたけどよ。……長い人生なんだ。世界を目指す『種目』ってのはひとつだけじゃあるまい?」
「けど……」
看護師に注射してもらった痛み止めは、効き目がいまいちだった。ジンジンと怪我がその存在をアピールしてきやがる。
「頭の出来に、自信なんざねぇ」
出世どころか高校入試だって今からじゃ。けど。
「ああ? お前は俺の子どもなんだぞ。それくらい生まれたときから知ってらぁ」
親父が「はは」と乾いた笑い声を出した。
「でもな。俺は、お前が『誰にも負けねぇ根性の持ち主だ』ってことも知ってるぞ。何しろ、俺の子どもだからよ。……違うか?」
「……いや、根性だけは譲れねぇ」
震える拳の上っ面に血管が青く浮かび上がる。
そうか。もしかして人の心が脆いのは、違う形に変化しやすいからかも知れない。それが証拠に、今こうして砕けた心が全く違う形になろうと蠢いてるじゃねぇか。
そして僕は中学卒業と同時に、親父の店で3年を寿司の修行に費やした。それから無理を言って一人暮らしを始め、都心の一流寿司店に弟子入りさせてもらった。
田舎で苦労するだけでは世界はおろか、ファミレスに対抗するのも難しい。今まで散々に苦労させてきた親父たちに楽をさせるためにも、僕は一流の店を出せる一流の職人になりたかったんだ。
ああ、それが僕の選んだ『新しい種目』だよ。
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