Smash

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 ――それから、8年ほどが過ぎた。  僕は都心の外れに系列店を任せてもらえることになった。雇われ店長ではあるが、それでも自分の店は嬉しかった。  店の名前を自由にしていいと言われたから、『すし処 しら寿』と号した。親父からは『いい名前だ』と褒めてもらったが、本当のところ彩速から言われた『雑魚野郎』を跳ね返せなかったという自虐なんだ。 「いらっしゃいませ!」  バイトの女の子が入り口で声を弾ませている。 「8時でご予約の冴島様、1名ですね? カウンター席へどうぞ」  どうやら新顔さんらしい。 「いらっしゃいませ」  贔屓にしてもらうため、ちったぁ愛想のひとつも……と思って、諦めた。そいつの顔に見覚えがあるからだ。  ダメだ。に振りまく愛想は持ちあわせちゃあいねぇ。 「……偽名で予約して済まなかったな。本名を名乗ると断わられるかもって思ったんでな」  11年ぶりに見る『彩速』は少しやつれたようにも見えた。 「うちは客商売だ。名前だけで出禁にゃしねーよ」  奥の棚から一升瓶を取り出し、小さなグラスに中身を注いでカウンターにコトンと置いた。 「そうか。無駄な気遣いだったな」  彩速はそう言ってグラスの酒を少し煽ってから、苦笑いした。 「えらく甘い酒だな。それにべったりとする。さては安い酒を出しやがったな?」 「馬鹿言うな。いいヤツなんだよ、それ。穴子の甘ダレを作るのに重宝しているんだ。……お客に飲ましたのはお前が初めてだ。光栄に思えや」 「……材料を直接に飲ますんじゃねーよ。くだらねー意地悪しやがって。オレは実験動物か」  呆れながらも、それでも彩速はちびりちびりと甘い酒を舐めていた。 「残念だったな、五輪。ラスト1秒まではいいバトルだったけど」  彩速は2ヶ月前の五輪で、陸上100メートル決勝の舞台にいた。そして、最後の最後に失速して銅メダルに終わった。  無論、日本人初の表彰台だから褒められるべき偉業だと言える。だが周囲の期待は金メダルだったから、それはある種の敗北と見るべきだったかも知れない。彩速は直後の記者会見で引退を明言した。 「まだやれるだろ。老け込むような歳でもあるまい?」  そう尋ねるが、彩速は「いいや」と首を横へ振った。   「スマッシュ走法は脚に蓄積するダメージがでかい。ショートキャリアは覚悟の上さ。実際、最後の1秒は不調だった右膝が悲鳴を上げたんだ。医者からは『普通の人並みには戻れる』ってさ。……お前と同じだよ」 「そうか」  僕は短く答えて軍艦巻きの準備にかかった。に出すなら、これしかないと思っていたから。 「オレはお前に告白しなきゃならんことがある。謝っておきたいと、ずっと思っていたんだ」  あれだけ我の強かった彩速の肩が、少しばかり小さく見えた。
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