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「お前がスマッシュ走法の練習をしていたのは知っていた。それに、右膝の故障もだ」
「……」
何も言わず、シラスの入ったケースを引き出す。
「そこに妙な仲間意識があってよ。だからオレがペースを調整し、お前とオレのワン・ツーで全国大会へ出ることも考えた。けどな」
彩速が遠い目で天井を見上げた。
「お前、『強い鎮痛剤』を使っただろ? 分かるんだ。オレも中学に上がったときに先輩に追いつこうと無理したことがあるからな。結果、怪我を悪化させて2年を棒に振った」
なるほど『中学で伸び悩んだ』というのはそれのせいだったのか。……同情はしねーからな。
「県代表を勝ち残ってしまうと、お前はその怪我と戦いながら練習する羽目になる。オレと同じ運命になる。それは嫌だと思ってな。だからぶっちぎることにした。消えてもらおうと思ったんだ」
そして小さな声で「けど、まさか引退するとは思ってなかった」と呟いた。それから蚊の鳴くような声で「すまなかった」と続けた。
「お待ち。うちは最初にこれを出すのが定番なんでな」
僕はカウンターにシラスの軍艦巻を置いた。
「ああ、『しら寿』だからか」
何の疑問も持たずにチョイとだけ醤油をつけて彩速が軍艦巻を口へ放り込む、その瞬間。
「げほっ! げほ! げほっ! ……て、てめー……やりやがったな!」
周りの客がびっくりしてこっちを見るほど、彩速のヤツが盛大にむせた。
「くそ……っ! しまった……油断しちまった!」
シラス軍艦の下には、大量の本わさびが敷いてあったのだ。あれだけぶち込まれれば鼻と喉にめちゃくちゃキタに違いあるまい。
「ぎゃはは! ざまーみやがれっ。人を雑魚呼ばわりしやがって! 雑魚をナメんじゃねーぞ、こら」
笑った。腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのは生まれて初めてだろう。無様にげほげほ言う彩速を前にして、涙を流して笑ってやった。
「ちくしょーめが! 卑怯な真似しやがって! ガキか、てめーは!」
「ああ、ガキなんだよ」
やっと笑いが収まって、僕は彩速と目を合わせた。この種目ならテメーにゃ負けねー。
「『種目』は違うが、心はあの頃と何も変わっちゃあいない。世界を目指してがむしゃらに走るガキそのままだ。……そうだろ? お前も」
やや間をおいて、彩速は呆れたようにゆっくり席を立った。
「帰るわ。料理酒を飲ませたり軍艦巻きにわさびを隠すよーな客あしらいの悪い店で飯なんか食えるかよ。……お愛想」
革の財布を取りだすが。
「いらねーよ。払える『金』が無ぇんだろ?」
「けっ! 嫌味な野郎だぜ」
彩速が財布をコートのポケットに仕舞った。
「二度と来んな。てめーのツラなんざ見たくもねぇ」
分かるぜ。お前がこんなところに顔を出しにきたってのは『振り切れてない』からだろ? 人の心が脆いのは、よく知っている。
なぁに、昔みたいに振り切って僕の前から消えりゃいいんだ。だからもう、ここには戻るな。
「心配すんな、二度とこねーよ」
そう笑った顔には、かつてのギラついた片鱗が見てとれた。
完
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