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 セレナは伯爵家当主だった夫を亡くした喪失感からずっと抜け出せないでいる。  約十二年前、子爵令嬢だったセレナは家族づきあいもあったアヴェストロ伯爵家の当主となったばかりのオディロンと政略結婚をした。二歳年上のオディロンの人柄は穏やかで思いやりがあり、人としてとても尊敬できる人だった。結婚後、子どもには恵まれなかったものの、オディロンと過ごす日々はとても穏やかで、平和で、幸せだった。政略結婚をした仲ではあるものの、お互いまじめな性分がプラスに向いて強い信頼関係で結ばれたとても良い関係だったと自信をもって言える。  恋をする期間はなかったけれど、そこに確かに愛はあったのだ。  今からちょうど一年前の冬。  オディロンは祖父の代から受け継いだ農園地帯の広がる伯爵領内を一週間かけて視察していた。その後、王立学園時代の同級生として交流が続いている国王陛下に謁見するため王城に赴くということで、約一カ月ほど屋敷を留守にしていた。けれど事前に聞いていた予定日を過ぎても彼は帰ってこなかった。  日頃から律儀なオディロンはセレナへの配慮を欠かさない人だ。帰宅予定から過ぎても何の連絡もないのはおかしいと胸騒ぎがして、セレナは領内の騎士団に連絡をとった。  領内の警備も行なっている騎士団は当主の行方不明ということですぐに捜索に当たってくれることとなった。  そして、翌日の夜、騎士団長と数名の騎士団員が屋敷に訪ねてきた。  その日は日の入りからすぐに東の空から大きな満月が上がっていた日だが、騎士団長が訪ねてきたのはちょうど南の空高くに月が上った真夜中だった。  こんな時間にわざわざ伝えなくてはならない何かがあったのだと思わざるを得なかった。夜着の上に薄ピンクのカーディガンを羽織り、急いでエントランスへ駆け出したセレナは、騎士団長たちの強張った顔を一目見て予感が確信へと変わっていく。引き結ばれた唇の様子から、セレナは彼から告げられる内容に覚悟が必要だと悟ったのだ。  夜分遅くの訪問を謝罪する形式的なあいさつをした騎士団長は右手を左胸に添え、眉間にしわを寄せながら言葉を詰まらせるように数回大きく呼吸を繰り返す。 「アヴェストロ伯爵夫人。…………お気の毒ですが、ご当主様は――」  言葉の先を濁され、うつむき加減で逸らされた視線にセレナは思考が止まった。はっきり言われないと確信が持てない。けれど言われなくても判断するには十分だった。  騎士団長の後ろに控えた騎士たちの震える肩や唇を嚙みしめるしぐさ。血管が浮き出るほど強く握られたこぶし。オディロンが皆に慕われていたことを知っているからこそわかる。  ――――オディロンが、亡くなったのだ。  その瞬間、セレナは半身を失ったかのような喪失感に襲われ、顔を手で覆う間もなく大粒の涙をぼろぼろとこぼした。  声なくあふれたその涙を正面で目の当たりにした騎士団長が息をのみ、顔を歪めながら咄嗟にセレナから視線を逸らす。 「ご報告、……ありがとうございます。こんな時間まで夫のためにご尽力いただき、心より感謝いたします」  セレナは地につけた足に力をこめ、毅然とした声で言った。  しかしその声とは相反して頬には涙がとめどなく流れ、顎から滴る雫が薄ピンクのカーディガンの色をどんどん濃く染めていく。それを目の当たりにした騎士たちの相貌が次々と涙で決壊していった。大の大人たちが嗚咽を漏らし始めたため、騎士団長は明日改めて訪問すると言葉を残して団員を引き連れて帰っていった。  その後ろ姿を最後まで見送ったセレナは体を吊っていた糸がぷつりと切れたようにその場に倒れこむ。すかさず侍女が二人がかりで支えてようとしたが、間に合わなかった。  セレナを気遣う侍女の声が耳鳴りの向こう側にかすむ。声を上げたいのに声が出ない。あまりの悲しみに喉がついてこない。痛いほど声帯が開いているのがわかるのに、深い闇に声が飲み込まれていくようだった。  翌日の昼過ぎに再び訪れた騎士団長により、オディロンは全身に暴行を受け、脳挫傷により死亡したと報告を受けた。また、オディロンに折り重なるように御者も死亡していたとのことだった。  夫の最後をしっかり知っておきたいから教えてほしいと懇願したセレナの願いを聞いてくれた騎士団長の方がつらそうな顔をしていた。  使用人思いのオディロンのことだ。御者をかばおうとして余計に暴行が酷くなった可能性がある。  御者は御者で忠誠心の厚い人物だったため、暴行を受ける主人を必死で護ろうとしたのだろう。二人の様子が容易に想像できるがゆえにセレナは胸が張り裂ける思いだった。  心を乱さずすべての報告を受け、騎士団長を見送り、気遣ってくれる執事に謝辞を告げ日中の務めを果たしたあと、セレナは自室の扉を背に倒れた。  伯爵夫人として平常心の鎧をまとって無理をしていた反動が一気に襲い掛かる。  昨日涙が枯れるほど泣いたというのに、どこからこんなに溢れてくるのだろう。壊れた蛇口のように涙が滝のように流れていく。深い喪失感に泣き声を上げたくても、まるで喉に穴が開いたように声が出ない。  体の中心に大きな空洞ができたような底知れぬ悲しみに体がちりぢりになるような痛みが襲い、頭がおかしくなりそうだった。  それからは地獄のような日々だった。  パートナーとして愛し、生涯共にあると疑っていなかった伴侶の暴行死はセレナの精神を激しく蝕んだ。  オディロンが暴行を受ける夢にうなされ、夢は記憶に張り付いて日中のセレナを苛む。彼の受けた痛みがまるでセレナ自身にも襲い掛かるように毎日心がキリキリと締め付けられていた。過呼吸で伯爵代理の務めもまともにこなせない。食欲もだんだんとなくなり、寝台から起き上がれない日が続いた。根本が心の問題であるため、医者を呼んでもあまり意味はなかった。  当主を突然亡くし、夫人であるセレナまでも床に伏してしまったことで、主人思いの使用人たちが陰で泣く声をドア越しに聞くこともあった。  セレナは申し訳なさに心がきしみ、また涙が溢れてくる。  今のセレナには彼らに気休めの言葉を伝えることすらできない。体力と気力がすり減ったセレナが彼らの前に出ていったとしても気を使わせてしまうだけだ。己の不甲斐なさにも嫌気が差し、ますます部屋に引きこもり、塞ぎこんでしまったのだった。  それでも使用人たちの生活を預かっている身としては伯爵家を守らなくてはならない。  自分だけでは領地経営は難しいと判断したセレナは、伯爵家当主の座を義弟であるオディロンの弟――ルイスに託すことにした。それと同時に、自分は伯爵家を出て王城の住み込み侍女になろうと考えたのだ。  もともと生家では厳しい淑女教育と共に、生きていくために必要な家事全般を身に付けていたため、誰かに仕えることに抵抗はなかった。  伯爵家にやってきた義弟夫婦は、とても親切にセレナに接し、療養するセレナを献身的に支えてくれた。オディロンの死から半年ほど経って、セレナが住み込みの王城勤めをしようと思っていることを伝えた際も、真剣に引き止め、ずっと屋敷にいていいと言ってくれたほどだ。  けれど、セレナ自身がそれを断ったのだ。  オディロンとの思い出が否応なく思い出される伯爵家にいるよりも、物理的に離れてしまった方が心の負担は軽くなると考えたからだ。  王城勤めについてはとんとん拍子に話が進んだ。  オディロンと結婚してからというもの、彼と幼馴染だという王妃とは季節の便りを送り合う仲だったということもあるだろう。通常はいくつもの審査、面接を経て決められる王城の侍女採用は王妃の言葉添えのおかげで半月も経たずに決まった。  厳しいと聞いていた侍女長からもつらく当たられることもなく、日々真摯に仕事に向き合うことができた。  結論として、王家のために仕え、忙殺される日々は、セレナの精神面を安定させた。働いている間はオディロンの死を考えずに済み、夜は疲労で深い眠りにつくことによって夢も見ずに朝を迎えることができたからだ。  王城勤めの侍女は一般的な女性がもらう給金よりも高い給金がもらえるということもあり、女性の働き口として憧れの職業ではあるものの、規律と最上級の礼儀を重んじるため、勤め続けるのは並大抵のことではない。  けれどセレナはそれが性に合っていた。  厳しい規律も、淑女教育で培った作法が役立ちなんとかやっていけた。  目の前の仕事に精一杯向き合い、何も考えられなくなるくらい忙しくしていたい。  実際目の回るような忙しさであったけれど、夜ベッドに入れば気絶するように眠りにつけることはとてもありがたかった。  そうして約一ヶ月、ひたむきに勤めたところで侍女長エリーゼに第五王子ロラン殿下の側付きを命じられたのだ。  翌日、日勤前の引き継ぎの時間でエリーゼからそのことについて皆へ伝えられ、昨日の呼び出しのこともあり一瞬のどよめきが沸いた。  エリーゼが早々に退室するなり、早速といったようにセレナは同僚に声をかけられた。 「セレナさん、王子の側付きなんてすごいじゃない!」  最初に声をかけてきたのはセレナよりも十歳ほど年下の子爵令嬢マゼンタだ。彼女はセレナが王城勤めをはじめて最初に話しかけてくれた親切な先輩同僚だ。翠の瞳が美しい赤みがかった茶髪のマゼンタは、王城勤め五年目らしい。セレナは人を寄せ付けにくい真面目な雰囲気で同僚たちからは遠巻きにされがちだったが、マゼンタだけが何かと気にかけてくれていて、内心とても嬉しく思っていた。  マゼンタが話しかけたことできっかけができ、セレナと話したことのない侍女たちがそろそろと様子をうかがうように近寄ってくる。 「でも第五王子って……」 「ねぇ……」  曇った表情で顔を見合わせるその姿に、やはり良い噂がないようだと察したセレナは思い切って同僚たちに頭を下げた。 「殿下についてご存じのことがあれば教えていただけないでしょうか……? その……私、ほとんど何も存じ上げなくて」  一瞬面食らったようにセレナを見つめた同僚たちだが、マゼンタがそっとセレナの肩に触れて「もちろんよ」と言えば、それに呼応するように各々が頷く。 「……とは言っても私が知ってることは少ないけど」  みんなはどう? と率先してマゼンタは同僚に視線を向けた。 「有名なのは味覚障害ってことよね。十歳の頃からな~んにも味がわからなくなったって聞いたわ」 「それは私も知ってる。あと香りもわからないのでしょう? 花が好きだった殿下には酷よね」  それを聞いたセレナは、目を瞬かせる。 「殿下は花がお好きなのですか?」 「昔の話よ? 殿下がいらっしゃる西棟に花がたくさん咲いている庭園があるでしょう? あの場所はもともと花が好きなロラン殿下のために作られたものだって聞いたことがあるわ」  言われてセレナはその情報を頭に叩き込む。  まだ王城勤め一カ月程度の彼女は西棟には行ったことがない。イメージすることしかできないが、彼女の話からおそらく印象的なほど花が咲いているのだろうことがうかがえた。 「昔は蝶々や庭師と戯れるロラン殿下のお姿があって賑やかだったそうよ」  かわいらしい王子が花の咲き乱れる庭園で蝶々と戯れる姿がセレナの脳裏に浮かぶ。きっと王城の者たちはその姿に癒されたことだろう。 「しかも殿下って昔は食べることが大好きでころころとしたお姿だったのでしょう?」 「それはもうお可愛らしかったと当時勤めていた侍女から聞いたことがあるわ」 「今はもうそんなの見る影もなく骨と皮のお姿だって言うじゃない」 「好きな食事も味わえず、好きな花の香りもわからなくなるだなんて、そんなの想像しただけで生きる気力をなくすのも納得できるわ」 「お可哀そうに……」  セレナもロランを思い胸を痛めた。  当たり前のように感じる味覚や嗅覚が、ある日突然失われる絶望感は察するに余りある。  状況は違うものの、自室に閉じこもっていた経験があるセレナは、無気力になる気持ちが少なからず理解できる。その期間が長くなればなるほど心はどんどん病んでしまうだろう。  エリーゼが言っていたように、その心をこじ開けることは逆効果だと改めて感じた。 「みなさん、ありがとうございます。殿下のために私ができることは少ないかもしれないですが、精一杯務めようと思います」 「殿下について何か情報があればまたセレナさんに伝えるわね」  トントン、と励ますように背中を軽くたたかれると、セレナはその心強さに涙が溢れそうになるのをぐっと堪え「ありがとうございます」と頭を下げる。 「セレナさんが今までやってた仕事は他のみんなで分担するから心配しないで」 「はい。承知しました」  セレナが基本の姿勢で軽く頭を下げると、同僚たちは顔を見合わせ苦笑する。 「やぁね、セレナさん固い固い。私たちは仲間なんだから、もうちょっと気楽に! ね?」  マゼンタの言葉に周りの侍女たちも笑顔を浮かべて頷くのを見て、セレナは眉を下げてふわりとほほ笑んだ。 「っ…………はい、ありがとうございます」  自分は恵まれている。  ここに来てよかったと、「仲間」の存在のありがたさに胸がすく。  こみあがる感情を堪えるように、セレナは喉の奥にぐっと力を込めた。
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