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「お前の肌を舐めさせろ。拒否権はない」  第五王子ロランの側付き侍女となった初日。  セレナはロランに詰め寄られ、両手首をやすやすと拘束された状態でそんな突拍子もないことを言われた。  この日からロランとの奇妙な関係が始まることなどセレナには知る由もなかった――。    ***    太陽が山の向こうへ沈みかける夕刻。  王城に勤める日勤の侍女とメイドたちが業務報告と夜勤への引継ぎのため侍女長エリーゼの前に緊張した面持ちで一列に並んでいた。  約一カ月ほど前から王城勤めをはじめたセレナも同僚たちと肩を並べる。  セレナは約一年前にアヴェストロ伯爵家当主であった夫オディロンを亡くし、夫の縁故で伝手を得て王城で働いている新人使用人だ。  伯爵夫人として淑女としての教養もあることが認められ、侍女見習いとして採用され、現在は一部メイドの仕事も学びつつ侍女の仕事をこなしている。  伯爵夫人であった頃は夜会など着飾る時以外はおろしていた長い茶髪も、仕事をする上では邪魔になるため綺麗に後頭部でひとまとめにしていた。以前からその見た目は決して華やかな部類ではなかったこともあり、地味なデザインのドレスに身を包んでいると、さらにその存在感は周りに溶け込んでしまっていた。    侍女長であるエリーゼの鋭い視線がひとりひとりを順に刺していく。彼女は王城で二十年以上仕えていて国王や王妃からの信頼も厚いという噂だ。その見た目からおそらく年齢は四十代後半から五十代前半程度。丸ふちの眼鏡をかけて前髪から後ろ髪までをきっちり遊び毛一つなくひとまとめにしている、いかにもな姿だ。彼女に目をつけられてしまえば働き口を失いかねないため、侍女やメイドたちは皆一様に緊張した面持ちだ。  王城で仕える使用人は特別な事情がない限り基本的に王城内の部屋に4人単位で割り当てられ、住み込みで働いている。全メンバーが交代で休みを挟みながら日勤と夜勤をどちらも担当する仕組みだ。日勤は朝5時から夕方5時まで、夜勤は夕方5時から朝方5時までの2交代制で、その前後15分間は引継ぎの時間となっている。  今は日勤が夜勤に引継ぎをする時間だ。同時に勤務中に問題は発生しなかったか、気になる点は何かないかなどを共有し、対応や対策については最終的にエリーゼが判断する。またその際、エリーゼから勤務中のダメ出しをされる者も少なくはなかった。  エリーゼは使用人たちの間でも厳しすぎて怖いと恐れられている。  もっとも、まだ一度も叱責を受けたことないセレナにはいまいち彼女の怖さというものが理解できずにいるのだけれど。  幸いなことに今日は王城内での行事もなく、イレギュラーな対応もなかった。夜勤への引継ぎも通常勤務の範囲内であるため、エリーゼの機嫌も悪くなさそうだと使用人たちは内心安堵していた。  一通りの引継ぎや連絡事項が終わり、最後にエリーゼによるお決まりの日勤と夜勤へのねぎらいの言葉が送られると、侍女とメイドたちは緊張感から解放される。 ――――はずだった。 「セレナさんはこのあと残っていてください」  エリーゼの感情の読めない淡々とした言葉に、セレナ以外の侍女たちの空気が明らかにそぞろになる。  何かしたのかしら? ここで要件を言わないってどういうこと? ご愁傷様、というような視線をちらちらと向けられるもののセレナ自身は意に介した様子を見せず、美しく伸ばした背筋をそのままに、そろえた指をへその上に当てて「承知いたしました」と目礼するのだった。  セレナ以外の侍女たちが退室し、部屋にはエリーゼと二人きりになった。最後の使用人が出ていくのを横目で確認していたエリーゼはセレナに向き直るなりセレナと少し距離を詰め、その表情を少し和らげる。 「疲れているところ残ってもらって悪いわね」 「いえ」  セレナは先程と変わらぬ美しい立ち姿のまま無表情で端的に答える。視線はエリーゼの視線から意図的に少し下へずらしている。目上の人の目を直視することは不敬とされるからだ。セレナは自分に向けられている視線を感じながら、両手をへその上で重ねる基本の姿勢でじっと侍女長の言葉を待った。 「あなたには、明日から特別な仕事をお願いしたいと思っています」 「……はい。なんなりと」  大きくもなければ小さくもない声。しかし一言一句は洗練された美しい発音で相手の鼓膜を心地よく揺るがす。  親の方針で幼少期より王族にも劣らぬ厳しい淑女教育を受けてきたセレナは休憩の時間でさえも背筋をピンと伸ばし、淑女の見本のような所作で過ごしている。豪華なドレスを着て歩いていようものなら王族と見間違うほどだろう。  質素な装いをしていても気品漂う佇まいによって同僚からは一目置かれる存在となっていた。  侍女長であるエリーゼもセレナを特別視している一人である。 「西棟の第五王子殿下付きとしてお勤めをお願いしたいのです」 「第五王子殿下……ロラン殿下、ですね。承知いたしました」 「ええ、そう……なのだけど――」  エリーゼらしからぬ歯切れの悪い言葉に、セレナははたと目を瞬かせ続く言葉をじっと待つ。  第五王子のことでセレナが知っている情報といえば、病弱で線が細く滅多に人前に姿を現すことのない王子だということ。もう十八歳になるというのに婚約者はおらず、社交界にも顔を見せず自室に引きこもっていると聞いたことがある。  実際セレナは過去に出席した王城でのお茶会や夜会で第五王子の姿を見たことは一度もなかった。  容姿の噂は誇張してあるのか幽霊のようであるとか、女と見間違えるほどの華奢な体だとか、そうかと思えば野獣のように恐ろしい姿だというものもあった。  過去に聞いた噂を思い浮かべ、エリーゼの様子と『特別な仕事』と言っていたことも鑑みれば、第五王子には何かしらの「難」があると予想してしまうのは自然なことだろう。  適切な言葉を探しているのか、軽く握った手を口元に添え思案していたエリーゼの視線がふいにセレナへ戻される。  これから話すことは他言無用だと念押しした上でエリーゼは重たい口を開いた。 「もしかすると噂程度には耳にしているかもしれませんが、殿下は少々可哀そうなご病気を患っていらっしゃいます」 (可哀そうな病気……?)  セレナの不思議そうな顔を見たエリーゼは、セレナが何も知らないのだと察し姿勢を正し静かに告げる。 「殿下は十歳の頃から何を口にされても味がわからなくなりました。それと同時に香りも一切感じなくなり、以来お料理をまともに口にされたことはありません。お医者様より処方される栄養剤が殿下の命をつないでいると言っても過言ではない状態です」 (味覚障害と嗅覚障害ということかしら……)  どちらも同時に抱えてしまった第五王子のことを思い、セレナは表情を曇らせた。  ある日突然、しかも多感な時期にそれまで感じられた感覚を失ってしまう絶望感を想像すると、心臓の奥が痛みに悲鳴を上げそうだ。人間の体は栄養剤だけで保てるのだろうか。いやそんなわけはない。それは食の知識など一般レベルしかないセレナでもわかる。  王城に仕える使用人は国の中でもトップクラスの知識を終結したプロフェッショナルな集団だ。そんな使用人たちが食事をとらない王子に進言しないわけがないのだ。けれどそうせざるを得ない状態にあるのだろう。  つまりは、王子自身が激しく拒絶をしているということだ。 「…………殿下がそのようなことになっているとは存じ上げず」  言葉を探してようやく返した言葉に、エリーゼは神妙な面持ちで頷く。 「ええ、そうでしょうとも。これは極秘事項にあたることで本来なら『外』の人間は知り得ないものです。ただ、人の口に戸は立てられませんから。知っている者も少なくはないのです」  王城で仕える者も入れ替わりがある。普段から王家とかかわる外部の人の数も多い。そうなると秘密にしていることであっても漏れてしまうことがあるということだろう。 「ロラン殿下の侍女として働いてもらうには、殿下の事情を把握している必要があるのでセレナさんにはお伝えしましたが、くれぐれも口外はしないようにしてくださいね」 「承知しました」 セレナの淀みない返事に、小さくうなずいたエリーゼは浅く息を吐くと言葉を続けた。 「殿下は日中のほとんどを自室でお過ごしでいらっしゃいます。ただ、その接し方が少々難儀なのです。今まで何人の侍女が辞めたことか……。それでも王子のお傍に誰も置かないわけにはいかないのです」  どんなに性格に難があったとしても王位継承権を持つ尊い存在には身の回りの世話をする使用人がつく。それは防犯の意味も兼ねているからだ。王家に仕える使用人は国にとっての宝を守る盾にもなる重要な存在だ。  貴族社会で生きてきたセレナはエリーゼの言葉の意味を理解し、相槌を打った。 「私もかつてはロラン殿下の側付きとしてお仕えしていたのですが、王妃殿下の側付き侍女が結婚を機に辞めてからは、私が王妃殿下のお世話役を担うことになり、ロラン殿下の側付きは別の侍女にお願いするようになったのです」  エリーゼはロランが生まれる前から王城で仕えていたということだ。彼女は自分がロランに仕えていたときの様子もセレナに伝えた。  長年王城で仕えしている経験をもってしても第五王子相手では全く経験が役に立たなかったと悲し気な表情で話す。幼い頃の無邪気な姿を知っているが故に、今の様子を見るとつらいのだと本音を吐露した。 「欲を言えば殿下が今の状態から少しでも良い方向へ向かうように力を尽くしてほしいのですが、無理にその心をこじ開こうとするのは厳禁です。過去にそれで暴力を振るわれた侍女がいるので、そうなるくらいなら、つかず離れずの距離感で最低限の側付きとしてのお役目を担ってほしいと思っています。セレナさんなら……と思っているのですが、務めていただけないかしら」  エリーゼの声色からは気遣いが窺えた。他の侍女やメイドたちがエリーゼのことを何と言おうとも、セレナはとても良い上司を持てたことを内心とても嬉しく思い、静かに一つ呼吸する。 「誠心誠意お仕えいたします」  いつも通りの凛とした澄んだ声。エリーゼがわずかに肩の力を抜いた。 「……そう。よかったわ。正直、あなたには侍女として何も言うことはないのでとても期待をしています。本当は他の仕事をしてもらいたい気持ちがあるのだけれど、抜けた穴を埋めなくてはならなくて……。他に適任がいれば交代も検討するので、それまではどうかお願いします」 「はい、謹んでお受けいたします」  セレナは揃えた手をへそ上に固定したまま瞼を閉じてお辞儀をした。 「今までの仕事との調整は明日、他の侍女やメイドとしましょう。しばらくは慣れないことで大変かとは思いますが、頼みますよ」  セレナはその言葉を聞いて心なしか安堵した。忙しければ忙しいほどセレナにはありがたいからだ。余計なことを考えずに済む。それが今のセレナには一番必要なことだから。  夫を亡くして一年。どうしたって塞がることのなかった心の穴は今もぽっかり開いたままだ。  しかし、やるべき仕事を前にすれば、セレナの真面目な性分のおかげで鬱々な気持ちは鳴りを潜めた。雑な布をかぶせただけの心には忙しいことはありがたい。  むしろ忙しくしなければまた自分は壊れてしまう。  セレナにはそんな確信めいた予感があった。
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