雨の日(1)

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雨の日(1)

 雨に濡れた木々からは、濃く強い緑と土のにおいがした。傘に当たる雨粒の音は、僕を急き立てるようだった。  一歩、また一歩と、僕はぬかるんだ地面をすすんだ。その間も、目は彼女を捉え続けていた。  男がゴルフクラブを振り下ろす直前、彼女は横っ飛びに避けて、地面を転がった。泥水がはね、頬に点々と模様をつくる。  彼女はすぐさま上体を起こすと、片膝をつき、低く構えた。男を注視し続ける。    流れるような身のこなしは、まるでダンスだ。  舞台は雨の降る林の中。  ダンスの相手はゴルフクラブを携えた不審者。  彼女はまだ、僕という観客の存在に気づいていない。  男はぐるぐるとクラブを振り回しながら、彼女に近づいていく。  僕は我に返った。  これは悠長に眺めている場面じゃない。  目の前で、同じクラスの女の子が不審者に襲われているのだ。  彼女のほうは、この場から逃げるでもなく、助けを呼ぶでもなく、あくまで不審者の攻撃を受ける構え。  誰が見たって無謀すぎる。勝算でもあるのか。  相手が凶器を所持しているのに対し、彼女のほうは丸腰だった。  いずれ男の攻撃は彼女をとらえるだろう。  助けなければ。  そう考えるのと同時に、僕は彼女の名を叫んでいた。 「小松原さん!」  ■ ■ ■ 「これってチャンスなんじゃねえの?」  そう言ったのは、山根裕司だった。中学からの友人で、僕の恩人でもある彼は、にやにやしながら教室の片隅に向かって視線を投げた。  つられて目をやる。  クラス委員の安在さんと数人の女子が、何やら難しい顔で話し合っていた。 「安在さんたちがどうかしたの?」  僕は裕司に目を戻した。  そもそも何がチャンスなんだろう。 「あれだよ、あれ」  裕司は安在さんが持つ紙袋を顎で示した。 「安在が持ってるあの袋、小松原さんへのお土産らしいよ」 「お土産」 「遠足のときの」 「ああ」  先週、僕たちの学年は遠足で水族館を訪れていた。朝から霧雨が続き、まったく遠足日和といえない天気だったけれど、目的地は屋内だったので問題はなかった。  その日、小松原さんは欠席した。  安在さんは遠足に来られなかった小松原さんために、水族館のお土産を買っていたのだという。 「安在が小松原さんのために選んだお土産はチョコ大福らしい。消費期限は明日まで。しかし小松原さんは遠足から今日まで学校を欠席し続けている。そして今日は金曜日」  裕司はすらすらと言った。 「つまり今日がお土産を渡す最後のチャンスだったわけだ」 「そういうことか」  安在さんはお土産の扱いに困り、友人らに相談しているのだろう。 「ちなみにチョコ大福は俺も安在からお土産でもらって食った。うまかった」  裕司も遠足を欠席したのだった。 「安在もせっかくうまいお土産買ってきたのに、小松原さんに渡せなくては無念で仕方なかろう」 「だろうねえ」 「さてさて、ここで綾人、おまえの出番だ」  裕司はひらりと手の平を僕へ向けた。 「今からおまえが、安在の救世主になる」  予言めいた物言いをし、裕司はにたりと笑った。何か企んでいる様子。 「救世主?」  僕は身構えた。 「そう。さっきも言っただろう? これってチャンスなんじゃねえのって」  そうして裕司は、「はいはーい!」と声を上げ、安在さんに向けて手を振った。 「そのお土産、綾人が小松原さんちまで届けてくれるってー!」 「ちょっ、誰がそんなこと言った」  僕は慌てて、裕司に詰め寄る。  裕司は悪びれた様子もなく、 「いいじゃん。どうせ綾人、放課後暇なんだろう」 「だからってなんで僕なんだよ。裕司が届ければいいだろう」 「俺、今日からバイトはじめるんだ」 「何それ、聞いてない」 「まあまあ、そう怒るなよ。考えてみろ、いいことづくめだぞ。お土産を届けたのをきっかけに、綾人は小松原さんとお近づきになれる。そして安在にも感謝される。みんなハッピー。めでたしめでたし」 「いや、それだと小松原さんはハッピーじゃないだろう。むしろ迷惑だ。一度も話したことないクラスメイトがいきなり家に押しかけてくるんだぞ」 「だけどそうやって強引にでもチャンスを作っていかないとさあ、綾人のことだから一度も小松原さんと話すことなく、来年にはクラス替えで離ればなれ……なんてことになりかねないぞ。いいのかよ?」 「なんで裕司は僕と小松原さんを近づけたがるんだ」 「なんでって……綾人、いっつも小松原さんのことで目で追っかけてるじゃん」 「え、そうかな。気のせいじゃない?」  素知らぬ顔で返したものの、内心ぎくりとした。裕司は昔から、妙に鋭いところがある。  確かに僕は、小松原さんのことが気になっている。  彼女の存在を知ったのは、入学式から数日後のこと。春には珍しい長雨がようやくやみ、久々に太陽が顔を出した日だった。  仲良しグループが形成され、賑やかな声が飛び交う教室の中で、彼女――小松原想乃はひとりぽつんと座っていた。昨日まで姿の見えなかった彼女に、クラスメイトたちはちらちらと、興味の視線を投げかけた。 「小松原は入学式から今日まで欠席してたからな。とりあえず自己紹介するか」  担任の言葉に、小松原さんは席を立った。彼女が話しだすのを、全員が期待して待った。  しかし、小松原さんは一言名乗っただけで、席に着いてしまった。クラスで一番、素っ気ない自己紹介だった。  休み時間になると、何人かの女子が小松原さんを囲んだ。 「部活ってもう決めてる?」 「お昼は学食? お弁当? 今日一緒に食べようよ」  どんな問いかけにも、小松原さんは真顔で短く返すだけ。会話を維持する気がまるでないようだった。  わたしのことは放っておいてください。  小松原さんは全身から、そんな空気を発していた。  だけどその態度は、拒絶、とは少し毛色が違うように見えた。ではなんだと考えたとき、当てはまる言葉は自傷だ。  小松原さんは自らすすんで周囲と距離をとりながら、とても寂しそうな顔をしていた。 「綾人は中学の卒業文集のアンケートコーナーで、いい人そうだと思う男子一位に輝いた実績があるんだ」  裕司の言葉が決め手となったわけではないと思うけれど、結局僕は安在さんからお土産を預かることになった。 「じゃあ的場くん、お願いします」なんて女子から頭を下げられたら、断れるわけがない。 「せっかくのお土産だからちゃんと小松原さんに受け取ってほしかったんだ。だけどわたし、今日は放課後クラス委員の集まりがあって小松原さんち行くの無理そうだったの。的場くんが代わりに行ってくれるなら、ほんと助かる。ありがとう」  安在さんは安堵の表情を浮かべていた。それから少し声を落とし、 「小松原さんずっと休んでるから心配だったんだ。的場くん、できたら元気づけてあげてね」 「元気づけるって、どうやって?」 「それは……お見舞いの言葉をかけるとか、学校のこと色々話してあげるとか」 「ていうか僕、小松原さんと一度も喋ったことないんだけど」 「まあ、的場くんなら大丈夫でしょう。女子から警戒されるタイプじゃないだろうし」  嬉しいような嬉しくないようなことを言って、 「それじゃあ、よろしくね」  と安在さんは僕の肩を叩いた。  クラス委員を引き受けるくらいだから堅物な人だと思っていたが、話してみる案外気安いタイプに感じられた。  僕にお土産を託し、安在さんは友人の輪へと戻っていった。 「そういえば、あの噂って本当なのかもな」  裕司がぼそりと言った。 「噂?」 「小松原さんは、雨が降ると学校を休む」  遠足から今日まで、雨の日が続いている。
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