焔(ほむら)

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 彼はあったかいでしょ、と言っていたけれどーー。  もちろん東北の厳寒と比較すると、格段に暖かい。しかし、僕にはここでもまだ、寒い。問題は気温ではなく、僕の心だ。僕の心は氷のように冷え切っている。  暖房を付けて、コーヒーをまた一口飲むと、男性に隠し事をしてしまったことを思い出す。休暇で来たのは誤りではなかったが、僕はあくまで病気休暇中の身だ。  昨年の秋ごろ、合わない仕事をやっている内に思うように体が動かなくなってきた。重い砂袋が肩に乗っかっているかのように。それでも職場に行こうとすると頭が割れるほどの頭痛に出勤を拒まれた。遅刻して無理やり職場へ行くと、今度は周囲からの視線が突き刺さってくる。視線は氷柱のように冷たく尖っていたし、どれだけ周りに迷惑を掛けているのだと言った言葉を含んでいるように感じた。実際は僕の自意識過剰かもしれなかったが。  そのような状況下で、仕事を休職して家に籠りきりとなるまではさほど時間を要さなかった。  やがて秋が終わり、冬を迎えると、落ち込んだままの心は身体に震えをもたらす氷と化し、今に至るまで解けることなく僕を冷やし続けている。 「……消えよう」  ワンルームの部屋でひとりつぶやいたのは、先月の頭。呟きは誰に聞かれることもなく、真っ白な部屋の四隅に吸い込まれていった。 そう決心したものの、僕は踏み切れずにいた。僕の凍りついた心を溶かしてくれる場所が、どこかにはあるかもしれない。その可能性に賭けて、最後の旅に出てみるか。 もしどこにもなかったら? いや、今は考えるのをよしておこう。沈んだ心が更に深くまで行って、より堅牢な氷に囲まれてしまう。  そうして僕は何一つの計画すら立てないまま、年明けに車を走らせ始めた。仙台まで国道四号を南下し、福島の浜通りを経由して太平洋沿岸をずっと走ってきた。東京、大阪と車を南へ走り続け、数日前に関門橋を通ってついに九州に辿り着いた。岩手県を出発し、宮崎県に到着したのは、一月の下旬に差し掛かった今日。  ランニングシューズを脱いで、無造作に靴下を突っ込み、後部座席に移った。後ろの方は出発時点からずっと布団を敷いている。車中泊を重ねるたびに徐々に身体が強張ってきて、背中や腰が痛むようになってきた。たタオルで体を拭いたあとで、布団を頭から被る。冷え切った心身を、少しでも暖めたい。足元のリアガラスを強い雨足が叩き、うまく寝付けそうになかったが、布団に入ると疲れからかすぐ意識は飛んだ。  その日、短い夢を見た。たった1つの灯りもない深い暗闇を、ひたすら沈む夢。沈んでいくほど冷たく、氷のようだった。  
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