焔(ほむら)

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「しまった。もう始まってたか」  夕闇に紛れ見えにくかったが、既に天高くまで煙が立ち上っていた。 「何か、燃えて――」  人々の隙間から、煙をあげているものを見たその瞬間、大太鼓を目の前で叩かれたような大きな鼓動が自分の胸から聞こえてきた。それと同時に、体温よりも熱い熱気が、僕の身体を包み込んだ。人々と同じように、僕も自然と息を呑んだ。 「そう、これが師走祭り。炎の祭典だ」  散る火花、赤々とした焔。田に拵えられた櫓が、赤々と燃え盛る。それらが放つ熱気は、近づく全てを溶かさんとばかりに遠慮なく目の前まで迫ってくる。思わず目を開けられなくなり、瞼を覆った。隣に立つ甲斐さんは誇らしげな表情で見つめている。額の皺一本一本、額を流れ顎で止まる汗に至るまで、炎に照らされくっきりと見える。  聳え立つ櫓が轟々と燃え盛っているような光景に、僕は釘付けになった。甲斐さんが車内で見せたジェスチャーは、この炎を指していたのか。 櫓はあちこちに点在している。まるで大きな灯が、夕闇に包まれる村を照らしているように見える。炎は瞬きをするごとに形を変え、二度と同じ形をとることはない。眠りから目覚めた龍でも飛び出して来るんじゃなかろうかと思うほど生命力が溢れる炎に、目頭が熱くなる。炎の動きに合わせて、僕の視界は端の方から歪んできた。一瞬高音がもたらす陽炎のようなものかと思ったが、歪みは自分の視界全体に広がってきた。やがてぽたり、ぽたりと地面に水滴がこぼれ落ちた。  涙だった。涙なんて、これまで一滴も出なかったのに。  目の奥から、泉が湧き出て来るように込み上げてくる。立ったまま嗚咽を堪え、腕で目を拭った。甲斐さんが背中をバンッと叩き、肩に手を置いてきた。「ほら、ここからが本番だぜ」  バチバチと音を立てて燃える櫓の間を、白い装束をきた人々が共に歩いていた。人々はシャッターチャンスとばかりに、炎をバックにその一行をカメラやスマートフォンでとらえ始めた。僕は只々、涙を拭いながらその光景に立ちすくむばかりだった。  ドンッ、ドンッドンッ。ドンッ、ドンッドンッ――。  やがて太鼓と笛が遠くから近づいてくる。太鼓は空気にピリッとした緊張感を与え、笛は一行の到着を朗々と歌い上げた。歩きはゆっくりだが、一歩ずつ、確実に前に進んで神社へと向かっていた。 「九十キロ離れた、比木っていう神社から来ているんだ」  隣に立っていた白髪まじりの、腰の曲がったお婆さんが、教えてくれた。振る舞いから観光客だと察したのかはわからないが、優しい笑顔だった。甲斐さんも頷いた。 「あれを御覧」  お婆さんは花柄の服から覗く細い腕をゆっくりと上げた。指さした先には、長い棒をもった白装束の老年男性。男性は両手で棒を持ち、肩で倒れぬよう支えている。長い棒の先端には白い袋が被せられていて、赤い装飾が施されていた。これまで祭りでは見たことのないものだったが、シンプルな見た目の中に、物言わぬ厳かな雰囲気が漂う。 「あの袋は……?」 「あれはな――神様だ。百済って、おぼてているか?」と甲斐さんが答えた。  くだら、と声に出して呟いた。ぼんやりとした記憶を辿ると、なんとなく聞いたことがあったか程度にしか覚えていない。古い国名だっただろうか? 「なんとなく、歴史で学んだ気が……」 「昔の朝鮮だ。周りの国や中国に負けて、その百済の王さま一家が日本に渡ってきた。海を流され、海岸にたどり着いて。結局、父親の禎嘉(ていか)王はここ南郷に。息子の福智(ふくち)王は、ここからもっと南に辿り着いたってわけさ」  なるほど、と僕が返事したその隣でおばあさんが眉毛を曲げていた。言いたかったことを取られたという悔しげな顔をしていて可愛らしい。 「年一回、はるばるそこの神門神社まで、息子が父に会いに来るんだ」 「いわば……これはその迎え火、ですか」  甲斐さんはああ、と頷いた。どうやら、そのようだった。 「このあたりの人はね、千年よりもずっと前から、祭りを守ってきたの」今度はお婆さんが口を開き、燃え盛る櫓に視線を移した。その横顔に刻まれた皺の一つひとつが木の年輪のように、祭りを語り継いできた南郷の歴史を刻んでいた。「どこからきた人で、何があったか知らないが、元気だしなさい。せっかく見にきた王様も心配するよ」  僕が「ありがとうございます」というとお婆さんは目を閉じ、ゆっくりと微笑んだ。  やがて炎の間を行く一行は立ち止まると、燃える櫓をじっと眺めていた。  その瞬間、轟々と音を立てて強い風が頭上を吹き、櫓に立ち上っている炎が空高く上がった。まるで息子が「帰ってきました」と挨拶し、父親が「よくぞ来た」と返事をしているかのように。躍動する炎をカメラにおさめんとばかりに、周囲にはシャッター音が鳴り渡る。  一行は再び歩み出し、神門神社へと向かった。次第に櫓は己の役割を終えたかのように、静かに眠りにつき始めた。人々も各々の方角へ散った。先程のお婆さんも家族に連れられて、杖をつき何も言わずに去っていった。今見た光景は幻だったのだろうか? と一瞬錯覚する。 「どうだい、これが師走祭りよ」と甲斐さんは言った。「俺もなあ、辛い時はよ、師走祭りの燃える櫓を思い出すんだ。火って見ているだけで、力を貰えるよな」 「……」  僕はしばらく言葉を失っていた。二人でしばらく火の手が収まった櫓を眺めて、やがて無言で歩き出した。 来た道を引き返し甲斐さんの実家まで戻る道中、足取りが軽いことに気がついた。いや、それだけじゃない。なんだか遠くまで良く見える気がした。歩きながら、天高く登る迎え火を思い出していた。夜空高く、どこまでも立ち上っていく炎の赤。櫓の燃える匂いと、バチバチとした音。迫り来る熱気。多くの人々。そして、百済から命からがら渡ってきて、この地に眠る王の御神体。あの師走祭りが、深い闇に飲まれた僕を照らしてくれたように感じた。  甲斐さんの自宅へ戻る道中は、祭りの余韻を崩したくなかったからか、口数は少なかった。道路が耳川と並走し始めたあたりで、甲斐さんが沈黙を破った。 「これから、どうする?」 「すみません。まだ何も……」 「どうせ今晩の宿もないだろう。一泊くらいなら泊めてくから、ゆっくり休んできな」  厚かましいだろうなと思いつつ「申し訳ありません」と素直に甘えた。 「もちろん。それで、いつ頃まで宮崎にいるつもりだい?」 「そのことですが……実は、明日にでも帰ろうかな、なんて考えています」 「帰るって、岩手に?」甲斐さんは目を見開いた。僕の心は決まっていた。 「甲斐さんのお話じゃないですけど。迷惑かけた親にでも会いに行かなくちゃと思いまして。ほら、王さまみたいに」 「福智王か」甲斐さんは何かを思い出したかのように運転席側のフロントを全開にした。顔を外に向けて、大きく息を吸い込む。 「オサラバー!」鼓膜がビリビリと痺れ、キーンという音が後に残った。 「わっ!な、何ですか?」 「はは、悪いな」と甲斐さんは笑っていた。 「だ、誰に向けてのお別れですか?」 「福智王は、明後日帰る。祭りは三日続いて、最終日は全員で叫んでお見送りするんだ。今みたいにオサラバってな」 「ほら、兄ちゃんも。叫んで振り払うといいさ。心残りのないように」甲斐さんは今度は助手席側のフロントを全開にした。心地よい風が頬を撫でる。  言われるがまま、肺一杯に空気を吸い込んだ。木々の濡れた香りが、鼻をくすぐる。心を固めていた氷の残滓を振り払うように、意を決して声帯を震わせた。「お、おさらばーっ!」  普段出し慣れていない、素っ頓狂な大声が車を飛び出て行った。甲斐さんは「ははっ。上出来だ」と笑ってフロントを閉めた。 「なんだか、スッキリしました」喉の奥に引っ掛っていたものが流れたように、心に固まっていた氷が溶ける。目には見えないけれど、僕は確信があった。 「良かったよ、本当に。連れてきて良かった」と甲斐さんは涙を浮かべて笑う。 「甲斐さん。来年も一緒に師走祭り、行っていただけますか?」その言葉を発するのにはいくらかの勇気が必要だった。しかし、今の僕には言える。また、あの炎に出会えるのだから。暗闇に囚われて凍りついた心を溶かしてくれた、あの灯りに。「僕、来年また宮崎に来ますから」 「ああ、もちろん。俺としても嬉しいな」甲斐さんは嬉々として言ったが、続けて「でも今度は、無理せず飛行機で来いよ」と苦笑いした。 「そうします」と僕が大人しく言うと、甲斐さんは声をあげて笑った。
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