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僕としてはなんの他意もなかった。ただ一限からすやすや眠っていたことが気になって、だからなんとなく「平野さん、平野さん」と声をかけただけだ。先に立っていたのは親切心だと思う。――いつになっても起きないものだからどこかあたりさわりのないところを突こうとしたところで――平野さんはまだまどろみの中にあるとしか思えないようなのろまさで、なんとまあ僕の伸ばした右腕にしがみついてきたのである。なにやらごにょごにょもそもそ言っている。内容はわからない。そろそろ起きたほうがいいんじゃない? そんな思いで右肩をつつく――やっぱり恐れ多いことだとは思ったけれど。
んん? んぇ? んああ? そんなふうに謎に満ちた眠たげな声を発し、いかにも眠たげな眼を向けてきた。
「おぉ、タナベじゃん。どしたぁ?」
「い、いや、平野さん。もう昼休みだよ?」
「おぉ、それはたいへんだ、お弁当を食べねばならぬな」
右腕を引っこ抜くようにして僕は平野さんの拘束から逃れ、「じゃ、じゃあ、僕はこれで」ということで踵を返して立ち去ろうとした。――するとブレザーの裾を掴まれてしまい――。
「まあ待て、タナベ」
「たしかに僕はタナベだけど……」
平野さんは嘆息したようにも見えたし、忌ま忌ましげな表情を浮かべたようにも映った。あまり機嫌が良さそうではないことは事実だ。だから僕は引き下がることを良しとする。僕にとってはなにが良くなかったのか、確たることは言えないけれど、自らのあまりよろしくない風貌、それに極度に引っ込み思案な性格……そのへんが男性はおろか女性にすら嫌われる原点であろうことは心得ているつもりだ。なので、平野さんと接触するだなんて恐れ多いことであって――。
「タナベ、つまるところテメー、とんでもねーことしてくれたぜ」
「えっ」
「だって、あたしと仲良くしてるとこ、見られちまったじゃんかよ」
「な、仲良くしたかな?」
「した」
「え、えっと、でもそれはあくまでも不可抗力であって――」
「写メまで撮られちまってんだろ。あー、あたしんことが大好きなもろもろの男子どもに目の敵にされちまうぜ。最悪、半殺しにされっかもな」
「そ、そんなぁ……」
思いもよらぬ容赦のない言葉の応酬に僕は混乱し、あるいは恐怖すら覚えた。難しいところだ。平野さんのことは正直悪いヒトだとは思っていない。むしろ、まあ、なんというか、こう――、が、妙な誤解を招いて最悪ヒトに殴られてしまうのはまっぴらごめんだ。半殺しはもっとごめんだ。というか、思えば僕はなにも悪いことをしていないではないか。――そのへん平野さん、きちんとわかってくれている?
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