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俺は泳ぐことが好きだった。水泳を始めたのも、純粋にそれだけを求めたからだ。
水中で自分の身体を自由に動かし、泳げなかった距離がどんどん泳げるようになった。できることが楽しくて、毎日水泳教室に通って水と戯れた。
ただ楽しかった。水と触れ合うことが。
いつしかその楽しさを忘れ、周りから賞賛されることに喜びを感じ、自分の中で大切なものを見失ったのか?
記録や実力を追い求めて、本来の自分の姿を忘れていなかったか?
俺は俺を消さなければならない。
消さなければならないのは、己の慢心。
なぜ泳ぐ?
俺にとってはそれが心地よく、楽しく、自分の本来の姿を取り戻してくれる手段だから。
それ以外にないじゃないか。
それで十分じゃないか。
男は壁にかかった時計を、ちらりと見た。
決勝まであと10分。
男は立ち上がり、軽く肩を回した。背筋を伸ばし、首を回して大きく2回深呼吸をした。
俺は俺だ。
誰よりも泳ぐことが大好きな俺だ。
男は閉じていた目を開けると、会場に向けて歩き始めた。
その目に、曇りはない。
背中には準決勝まで沸々と湧き上がっていた闘争心でなく、落ち着きと安らぎが宿っていた。
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