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壱
「——— 人攫いを手伝え。この件は何があっても他言無用だ」
「そ、そんな非人道的なこと……」
額から汗を滲ませた兵蔵は、有無を言わさぬ圧に慄いていた。
——— 事の発端はいっとき前に遡る。
日が登る前の明け六つ時。俺は債務者の住まいを訪ねようとしていた。
先月、俺の元に金を借りに来た兵蔵は、何度督促をしても金を払わないクズ野郎だ。身の丈に合わない額を借り入れ、返済を強いても「もう少し待ってください」と上辺の言葉を吐くばかり。こういうクズは、一度痛い目に遭わなければ性根は直らない。
長屋の一画にヤツの住居があり、部屋の前で戸を叩く。しかし部屋から出てくる様子はない。ヤツがここにいることは把握済みなので、今度は勢いよく戸を開ける。
——— ガラガラッ!
「おい、てめえ! 無視とはいい度胸……」
「どちらさまです? 朝から騒がしいですね」
「あ、あれ……兵蔵……」
「兵蔵? あぁ、そりゃお隣さんですよ」
「……申し訳ない」
これだから長屋ってのは嫌いなんだ。
他人の部屋の前でまごついていると、隣の部屋からヤツはひょっこりと顔を出した。
「紀助さんじゃないですか。そんなところで何やってるんです? 朝から近所迷惑ですよ」
「てめえ……」
ヤツの顔を見た途端に怒りが沸いてきて、そのまま部屋に押し込んだ。
「な、なんですか。乱暴はやめてくださいよぉ」
「俺がここに来た理由が分からねぇってのか? 金を回収しに来たんだよ」
「あっ、そういう……。それはそれは、こんな朝早くからご苦労なことで。えーっと、返済は来週まで待ってもらませんかね?」
「先週も同じ台詞を聞いた。払えねぇのなら、倍の利子をつけて全部で5両だ。来週までに返せよ」
「いやいや、5両なんて払えるわけないじゃないですか! というか、俺が借りたのは2両だけですよね?」
「利子だって言ってるだろう。昨日よ、お前が藤乃屋から出てきたところ見たんだが、借金の理由は女ってことか? 金もねえのに女遊びなんざ、身の程をわきまえろ。で、どうやって金を返すんだ?」
「そ、それは……えっと……て、天から降ってくるかもしれないんで」
「あ?」
「……すいません」
「返す当てがないのなら、いい仕事を紹介してやろう。耳を貸しな」
兵蔵の肩に腕を回し、耳元で先ほどの言葉を述べるとびくりと肩を震わせた。
「嫌ですよ……俺はまだお縄につきたくないですもん」
「まだってどういうことだ」
「あっ、なんでもないです。そんなことより! 人攫いなんて下衆の極みってもんですよ!」
「金を返さないお前が言うんじゃねえよ。この依頼が完了すれば300両は手に入る。5両は返済に充てるとして、報酬で10両をお前にくれてやってもいいぞ」
「え……逆に金がもらえるんですか? や、やります! やらせてください!」
全くもって単純な野郎だ。
金のないヤツは後先を考えない。だから金を貸しては高利子にして返済不能にし、返せる当てがなければ俺の仕事を手伝わせる。これがいつものやり口だ。
この兵蔵は、田舎から出てきて日雇いをしながら生活している。その日暮らしの給金しかもらっていないくせに、借金をしてでも遊郭に通うどうしようもないクズなのだ。
「それで、どこのどいつを攫えばいいんでしょう? まさか、女ですか?」
「察しがいいな。今から行く場所はとある置屋なんだが、そこに10人の女が監禁されている。いずれも身内に売られたわけではなく、無理矢理連れ去られて、男相手に商売をさせられてるって話だ。その置屋から女たちを奪還するのが今回の仕事。依頼主は女たちの親族で、中には豪商の娘までいる。だから羽振りがいいのよ」
「いや、紀助さん。それって人攫いというか、人助けですよね?」
「そうとも言う」
今回、俺の元にきた依頼は町奉行所が動いてくれるであろう事案だが、攫われた女の親族はそれを拒んだ。傷ものにされた娘がいる、と妙な噂が立ってしまっては近所に面目が立たないという。将来的に婚姻を控えた若い女もいる中で、内密に救い出して欲しい、というのが依頼内容だ。10人も救い出すには1人じゃ手が足りない。ちょうどいい人材を見つけたものの、コイツがどこまで役に立つかは分からない。
「兵蔵、お前は盗みをやったことがあるか?」
「へ!? あ、あ、あ、あるわけないじゃないですか……」
「ふーん。本来ならお前は奉行所に連行される身だが、俺が見逃してやろう。その代わり、俺と世の中の役に立て」
「み、見逃してくださるなら何だってやります! ですから奉行所だけは……!」
「わかってるよ」
「ありがとうございます! ところで、紀助さんは何者なんです? ただの金貸しだと思ってましたが……」
「……いや、ただの金貸しだ」
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