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それから雄太は、自分の左側に視線を移した。座席の向こうには左右に乗車口があって、乗車口に挟まれたスペースには、満員の時などに掴まれるようなつり革が天井から下がっている。つまり、余裕をもって座席に座れる車両内の現状では、そこには誰もいないはずだった。だが、1人の若い男が片手でつり革を掴んで、じっとそこに立ち尽くしていた。
その男はまだ大学生かなとも思える若い顔立ちで、短い髪型ともう秋口だというのに半袖のシャツを着ていることから、スポーツマンタイプのようにも感じられた。とすると、空いている座席に座らずあえて「立っている」のは、電車に乗っている短い時間内でも、体を鍛えようという意図があるのかもしれない。そんな、頑固に自分の意思を貫こうとしている若者を見て、雄太は密かに「はあ……」とため息をついた。
彼は恐らくその「若さ」ゆえに、こうして意地を張るかのように、ガランとした電車の中でも座らないという選択をしているのだろうが。そうやって「自ら疲れるような選択」が出来るのは今のうちだけなんだよ、「大人」になったら休める時は休まないと、知らず知らずのうちに疲労が蓄積して、体も神経もすり減っていくだけなんだよ……と、雄太はおせっかいにも程があるアドバイスをしてあげたいくらいの心境だった。
それはもちろん、こんな終電間際の電車に乗るまで業務に追われていた、自分を顧みてのことだったのだが。そしてまた、こんな風に気が付けば「人間観察」をしてしまう自分を自覚し、雄太は再び「はあ」とため息を漏らした。
雄太はとある商社に勤めているのだが、その会社で自分が請け負った職務は、「客に対するクレーム処理」だった。明らかに会社に非があるものから言いがかりに近い苦情まで、雄太は毎日のようにクレーム先に出かけ、その対応に追われていた。
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