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ナツのルーツを訪ねたい、と彼が言ったとき、思い浮かんだのはあの場所だった。とんでもなく行きにくいところにあるその桜を見たいと思った自分に、私は自分で驚いた。
ルーツ、という言葉に対する思い入れの度合いは、彼と私とでは相当に隔たりがあるように思う。私は当たり前のように日本人で、先祖代々の墓に参り、この国で育まれたお醤油味のごはんを食べて生きて来た。でも、これから先、異国の地で、その記憶だけを拠り所に眠る日が、いつか来るかもしれない。慌ただしい日程に、この小旅行を組み込ませたのは、おそらくそんな、らしくもない感傷だった。
ナビ付のレンタカーに、彼はヒュウ、と口笛を吹いた。クールだね。
かつて私が数年暮らした家の住所は、ナビには登録されていなかった。あの場所は地図から完全に消えてしまったのだ、それを小さな機械の箱にあらためて教えられ、私は唇をかんだ。彼はただ優しく、私の肩を抱いてくれていた。結局、スマホで割り出した目的地の今の名前を入力して、私たちは春の終わりの小冒険に繰り出した。
「ここが、ナツの精神的なルーツ?」
「そう、おばあちゃんちのあった場所」
たどりついた湖を見下ろし、彼は目を細めた。細長い湖は、穏やかな春の日を受けて水面をキラキラと輝かせている。
「美しいね。でも……あれは何? ホラー映画みたい」
彼が指さした先には、斜面を下り、真っ直ぐに湖へと消えていく道路があった。
「そうね。――ここには、村があったの」
「What?」
彼が振り返る。
「ここは、このダムの湖の底には、沈んだ村があるの。私がほんの小さな子供の頃に、3年、暮らしていた村」
*
その日々の記憶は、私の中で、不思議な明るさに彩られている。連れてこられた翌日、目を覚ましたらいなくなっていて、それきり顔を見せることのない母。古びた畳の匂いのする、天井の隅に蜘蛛の巣がかかった、いつもどこかひんやりとした、おうちの中。夜中でも雨降りでも、靴を履いて傘をささなければ行かれない、穴だけが開いた「おべんじょ」。腰の曲がった祖母の、後ろ手に鎌を持った、ゆっくりゆっくりとした足取り。目に浮かぶのはそんな、どちらかというと暗さと薄気味悪さに彩られた風景ばかりなのに、だ。
ただ、村の自然は素晴らしかった。春には色とりどりの可憐な花が咲き、ひらひらと白や黄色の蝶が舞う。夏の夜にはそこらでつやつやした大きなカブトムシがとれたし、昼間の庭には手のひらより大きいオニヤンマが悠々と周回し、そしてその王のような風格の虫は、ごく他愛なく虫取り網で掬い取れた。鬼イチゴ、ぐみの実、甘い甘いアケビ。外で遊ぶのに、おやつには事欠かなかった。
「君は野生児だったんだね。ガールスカウトも形無しだ」
彼が笑いながら言う。
「君をそこまでの野遊びの達人に育て上げたのは、君のおばあちゃんなのかな」
「え。いいえ、――いいえ」
彼の言葉に、ずっと感じていた違和感が、突然鮮明に浮き上がった。記憶のかたすみを陣取っている、もやのようなもの。
「――あの頃の私には、相棒が、いたの」
知らずこぼれ出た言葉に、雷に打たれたような衝撃を受ける。ふいに目の前に、あの笑顔が広がった。
どうして、どうしていままで忘れていたのだろう。
ハル。彼女の笑顔が、この場所で過ごした私の時間を、いつも明るく照らしていたのだ。
水面に反射する日の光のまぶしさに目を眇めながら、私はゆっくりと、湖の周囲を見回した。右手の視界の片隅、他の山の木々とは離れたところに、薄紅色のまばらな塊がひとつ、ひっそりと揺れているのが見えた。
「あそこ」
歩き出す私を、慌てた様子の彼の声が追ってくる。
「どこ? 何?」
「あそこ、桜がある。まだ、咲いてる」
たどり着いたその場所は、遠い記憶とはまるで違っていた。立ち枯れた雑草が、隙間なく辺りを埋めつくしている。私たちが転げまわった広場は、どこが境かもわからないほど、跡形もなくなっていた。
私はがさがさと、折り重なる枯れ草のじゅうたんを踏み分けながら、ぽつんと佇む桜の木を目指した。ようやくたどりついた桜の木にからみつく雑草の蔓を、必死にかき分ける。せわしなく動く私の腕の後ろから、たくましい腕がにゅうっとのびて、またたく間に桜の木は丸裸になった。
「ありがとう。――ねえ、見て。背比べ」
「何?」
「ここ。傷がついているの、分かる? 私と相棒の、身長の印よ。3年分の」
「Wow, so cute」
私たちの腰あたりの位置に、いくつか横線の傷あとが並んでいた。
『大きくなれるなんて、うれしいな』
ハルの声が蘇る。
いつでも屈託のない、春の日差しそのものの、その声。笑顔ということばを体現したような、その笑顔。
ハルと出会った時の記憶は、ぼやけた光景と鮮明なそれの入り混じった、奇妙なものだ。祖母の家に来て数日、祖母の働く畑の傍らで人形遊びをしていた私の前に、気がつくと、私とちょうど同じくらいの年頃の女の子が立っていた。私はその子を一目見て、大好きになった。彼女も同じなのは、その目を見ればわかった。
私たちはしばらく、時々顔を合わせて笑いあいながら、アリの行列の観察をした。
「ねえ、わたしは、ナツ。あなたは、だあれ?」
私の言葉に、彼女は少し困ったように首をかしげた。
「わたしはねえ、あついあついなつのひにうまれたの。だから、ナツ。あなたは?」
「きょう、なつ?」
「きょう? きょうは、はるだよ。はーるがきーた、はーるがきーた……」
「わたしは、ハル!」
「ハル?」
「きょうは、はる。わたしは、ハル!」
ハルは私に、私たちをとりまく世界を楽しむありとあらゆる方法を教えてくれた。私はあっという間に、その虜になった。ハルがいれば、寂しいことも、悲しいことも、自分からはひどく遠いところにあるように思えた。
それでも、ハルは幼い私から見ても、少し不思議な子だった。彼女はよく、数日前の自分と背比べをしたがった。大きくなることが当たり前の私にとっては、それはよく分からない行動だった。
『ナツがいるから、私は、大きくなれるの』
ハルはいつものように、うっとりと私の頬をなでながら言う。
『私はずっと、眠っていたの。ナツのおばあちゃんが、ずっとお世話をしてくれたけど、起きられなかった。ナツが、私を、起こしてくれたんだよ。ナツがいるから、私は、ここにいられるの』
ハルは歌うように言う。
『ねえ、ずうっとこうしていられたら、いいね。ナツは、ここにいれば、ずうっとずうっと幸せだよ。私が、守るから』
彼女の声はいつも甘く優しく、そして、胸の奥を粟立たせる何かを含んでいた。
『ねえ、ずうっとここにいて。ずうっと、大きくなっていくナツを、この木に刻んでいこうねえ』
私が、3年ぶりに不意に現れた母によって、地方都市の小さなマンションに連れていかれたのは、5歳と半年のことだった。それから今日まで、この場所に、私が再び足を踏み入れることはなかった。
「ねえ、君の『相棒』には、小さな弟か、妹がいたの」
彼の声に、私は我に返る。
「え、どうして」
「ここに、もっと小さな『背比べ』がある、ほら」
彼が差し示す場所を見て、私は言葉を失った。そこには、私たちの傷あとよりは幾分低い位置から、ほとんど地面すれすれの根元まで、いくつもの横に走る傷あとがあった。
再び迸る記憶の奔流に押し流されぬよう、私は、きつく歯を食いしばる。
「ハルのおうちはどこ」
私が尋ねると、ハルはふふ、と笑って、私の手を握って村の道を下っていった。歩きなれた、私の住む家への道だった。
『ここ』
指し示されたのは、その道の傍らにある、小さなお堂だった。祖母が、畑に行く道すがら、毎日供えられた茶碗の水を替え、折々には野の花を供えている、小さなお堂。祖母にくっついて歩いていた私も、毎日、そのお堂に手を合わせていた。
「ここ!?」
『うん。言ったでしょう、私は、ナツに生かしてもらったって。消える寸前だった私は、ナツのおばあちゃんの毎日換えてくれるお水で、かろうじて生きながらえていたの。そして、ナツが来た。ナツの純粋な祈りの力は、私に、数十年ぶりに、形を作る力をくれた』
ハルの、優しい優しい声。
『私は、私たちは、人々の祈りによって造り出され、永らえていく存在。求められ、祈られる存在でなくなった時には、ただ、だんだんに小さく弱く幼くなって、やがては形も無くなって消えていく。それでいい、……それがいいと、思っていたのに』
その声の響きが、嬉しそうだったか哀しそうだったか、それすら、今の私には定かではない。
『ナツ、ありがとうね』
彼にそれが分かるかは分からないけれど、桜の傷は、下に行くほどだんだんと、新しくなっていくようだった。それが何本あるのかは、とても私には、数えられなかった。
ハルは、日増しに小さく幼くなっていく自分の背丈を、どんな思いでこの木に刻み付けていたのだろう。都会に連れ戻され、この村のことなどすっかり忘れて、ただ日々を必死に生きていた、私と同じ時を、違う空の下で過ごしながら。
最後の傷をつけた時、彼女の顔は苦しみに、哀しみに歪んでいたのだろうか。ただ淡々と、滑らかに美しかったのだろうか。それとも、微笑んで、いたのだろうか。
さらさらさらと、頭上の桜の木の枝を、風が渡っていく。
私は黙って、まとめた髪からヘアピンを引き抜く。そして、桜の木の幹に向かうと、自分の頭の位置に、ぐいと横一本、傷をつけた。それから、私の背後でじっと私を抱き込んでいた彼を引きはがすと、桜の幹に押し付ける。
「hey……」
彼は困惑しながらも、なすがままになっていた。この人は、私に向かってほんの少しでも、力をふるうことはできないのだ。精一杯背伸びをして手を伸ばし、彼の頭の高さで、もう一本の線を引く。
新しい二つの線は、他の横線に比べるとばかみたいに遠く高く、嘘のように、ただ滑稽に見えた。
『ナツのうそつき。こんな、ばかでかい人間、いるはずない』
くすくすと、耳元でなつかしい笑い声がするような、気がした。
ハルは、もういない。
わずかに残る薄紅色の花弁を、風が容赦なくさらっていく。はらはら、きりきりとこぼれ舞うその春のかけらたちを眺めながら、私は思う。
桜の木は、花が散るのが悲しいだろうか。
そんなわけはない。
散りゆく花弁は、桜の木にとっては死んだ細胞だ。春のひと時の薄紅の衣を脱ぎ捨て、彼女は生き生きとした緑の葉を身にまとっていく。今ここにあるのはただ、繰り返されていく生まれ変わりの歓びの光だけだ。
さよなら、ハル。
私は、あと数日で、夏の前に雨が降り続けたりしない国に行く。美しく可憐だったあなただけを胸に刻んで。
きっと、ここに戻ってくることは、二度とないだろう。
見上げた葉桜の枝からこぼれる光には、はっきりとした夏の予感があった。
青い春を脱ぎ捨てて、朱い夏が、やって来る。
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