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ついに。
「……やってしまった」
罪悪感と欲望のせめぎ合いに耐えていると、静かな部屋の中で、小さな物音が聞こえた。
さっきから上の階のどこかから宴会のように人が騒いでいる音が聞こえていたが、その音が徐々に大きくなっている気がした。
……こんなアパートでも住人がいるんだ。てっきり廃墟だと思っていたのに。
しかも物音がもっと近くからもしていることに気がついた。
部屋を見回すと、その音は押し入れの中からだった。
「…………」
押し入れの中から何かが動いている音がしている。
咄嗟に北海道さんを起こそうと肩に触れたところだった。
押し入れが開き、隙間から青白く光る人間の顔が、右目だけを見せ、こちらを見た。
「北海道さんっ!」
北海道さんの肩を揺するがまったく起きない。
「北海道さんっ!」
「おや、先約でしたか」
「…………」
押し入れの戸がさらに開くと、それは暗闇でも分かるほど、とんでもなく顔の白い男だった。
押し入れからノソリと現れたその男は、寝ている北海道さんをちらりと見てから畳に座ると、手にしていたワンカップの酒の蓋を開けた。
そして路地の明かりが漏れる窓の方に顔を向けた。
「たまにこうやって月見酒を楽しむことにしているんですよ。隣の音がうるさい時なんか特にね」
「…………」
男は何食わぬ顔で酒を飲み始めた。
押し入れの中を見ると、天井の板がはずされている。上の部屋から下りてきたのか。
「あなたもこうやって眠れない夜は空を見上げているんでしょう?」
「…………」
男は畳にあぐらをかき、優雅に見えるほどゆっくりと笑いながら、楽しそうに酒を飲んでいる。
怖いというほどではないが、不気味ではあった。生きている人間だと思いたいが、確証がもてない。しかし男はそんな俺を気にすることもなく、酒をあおっている。
そして男はまた北海道さんの方を見て、さらに顔を覗き込んだ。北海道さんはよく眠っていて、起きる気配はない。
「だめですよ。こんなことしちゃ」
「…………」
「こんなことをしたら、いつか、死ぬに死ねなくなってしまいますよ?」
「…………」
男が北海道さんを覗き込む体勢のまま俺の方を見たが、もう笑っていなかった。
「…………」
姿勢を直した男がまた減らない酒を飲んだ。
どのくらいの時間そうしていたか分からない。男の顔から出ているような蒼白い光が徐々に広がり、視界が覆われると、強烈な睡魔に襲われた。
目が覚めて起き上がると、すっかり日が昇っていた。昨日とはうってかわって部屋の中で光を感じる。
部屋を見渡すと、しっかりと目が覚めている北海道さんが、部屋の隅で膝を抱えて座って俺を見ていた。
「北海道さん?」
「……もしかして、見た?」
「…………」
「朝起きたら押し入れが開いてたし、よく見ると天井の板もはずれていたんだ。昨日確認したときはちゃんとはまってたはずなのに」
「たぶん上の階の住民だと思いますよ。やっぱり誰かが侵入していたんです」
「上は誰も住んでないよ」
「…………」
よく眠ったあとの北海道さんはいつもより目が大きくなるが、今はそれ以上に目を見開いている。
「というか、このアパートは誰も住んでいないよ。不動産会社がここを買い取りたいけど幽霊が出る噂があるから俺に確かめさせようとしたんだ」
「……どうして先に教えてくれなかったんですか」
「え?」
北海道さんが目を見開いた顔のまま四つん這いになり、こちらに近づいてきた。
その姿はまるで獲物を見つけた猫のようだ。
「やっぱり、見たんだ?」
「…………」
「どんな幽霊だった?」
「北海道さんの寝顔を見ながらお酒飲んでました」
「えー!」
北海道さんは驚愕した様子で後ろに倒れた。
「やっぱりっ! 起きたらめずらしく君が寝てるしっ! 僕の服はほとんど脱がされてるしっ‼ おかしいと思ったんだっ‼」
「…………」
「どうして起こしてくれなかったんだよ! 何日も張ってたのに! なんで僕の前には現れないんだよ‼」
北海道さんは寝袋を叩き、幼児の地団駄のように畳を蹴り始めた。相当幽霊に会いたかったらしい。
「本当にこのアパートは空家なんですか?」
じゃあ昨日のあの物音はなんだったんだ?
北海道さんは首だけ起こすと、睨むように俺を見た。
「昔、騒音問題で上の階で殺人事件があったらしいよ。犯人は下の階の住人を人質にとってしばらく籠城したあと自殺したらしいけど。それからは誰も住んでいない」
「…………」
北海道さんは拗ねたように唇の上を膨らませていたが、すぐに隠しきれない好奇心の顔で、キラキラとした目を俺に向けた。
「で、どんな幽霊だった? 顔は?」
「…………」
顔は思い出せない。夢のように頭の中でぼんやりと今にも消えそうになっている。
……あれは本当に幽霊だったんだろうか。もしかしてあれが医者が言っていた幻覚というやつか?
幻覚が俺のあれ以上の行動を止めてくれたんだろうか?
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