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どんなに掃除をしてもどこか埃っぽい事務所の中で、弁当を食べ終わった北海道さんが、机に頬杖をつきながらパソコンを触っている。ポチポチとキーボードを打つ手は退屈そうだ。
「北海道さん」
北海道さんには昼も夜もない。
眠たくなったら眠るだけ、お腹が空いたら食べるだけ、本当に羨ましい生活だ。
「実は今度旅行に行こうと思ってるんです」
「へぇ、珍しいね。島根くんが」
「妹が新婚旅行に行く間は店を閉めることになったので」
「そっか。もうすぐだったね」
来週妹がついに結婚する。
新婚旅行から帰ってきたあとは、脱サラした妹の旦那とついに三人で弁当屋を営むことになる。北海道さんの事務所に転職することを希望したが断られてしまったから。
「良かったら旅行一緒に行きませんか?」
「いつ?」
「来週」
「どこに?」
「決まってません。北海道さんの好きなところでいいです」
「あー、ごめんね。来週は忙しいんだ」
……またも無下に断られてしまった。北海道さんは俺の気持ちなんかどうでもいいんだ。
「忙しいわけがないじゃないですか。北海道さんが」
そう言うと、北海道さんがクスクスと笑い出した。
「本当に仕事だよ」
「依頼ですか? どんな?」
北海道さんが人差し指を口に当て、ニヤリと笑った。北海道さんが口を横に広げると、途端に十代の少年みたいになってしまう。
「島根くん、僕にも守秘義務があるんだよ」
北海道さんの顔がニヤニヤとしている。どうやら楽しそうな依頼らしい。
「そんなの北海道さんにあるわけないじゃですか」
俺と北海道さんの間に。
「今回だけね。依頼人からきつく言われてるから」
「どうせまた墓参りでしょ?」
「違うよぉ」
北海道さんはニヤニヤが止まらず、ついには口を手で押さえ、笑いが堪えられなくなってしまった。機嫌が良過ぎる。嫌な予感がした。これは釘を差しておかないと。
「いいですか? 北海道さんはシャーロック・ホームズにはなれませんよ?」
すると北海道さんがついに声を出して笑い出した。
「島根くん、そんなこと言うとクビにしちゃうよ?」
楽しみでしょうがないといった感じで笑っている北海道さん。
「雇われてませんよ」
……雇ってくれなかったくせに。
俺の恨めしい気持ちをよそに、北海道さんが鼻歌を歌い出した。
妹の結婚式のあと、一人で四国へ飛んだ。
煩悩を消し去ることが目的だった。
スマホの電源を切り、ネットで買った白衣を着て、笠を被り、杖を持った。そして江戸時代の人間も歩いたというお遍路の道に立った。
しかし歩き出したところですぐに膝にきた。……また太ったからだ。毎日眠れない夜にピザを食べてたせいだ。
「兄ちゃん、無理すんなよ」
通りすがりの人間に肩を叩かれた。
「…………」
しかしスタート地点に立っただけでやめるなんてできない。
なんとか膝を動かして歩いた。
毎日全身の筋肉痛を抱えながら歩いていると、日が経つにつれて体が軽くなっていくのを感じた。日に焼けて顔色も良くなり、健康的な見た目になった。お遍路仲間もできて爽やかな汗を久しぶりにかいた。
そして毎日、東京より静かで小さな星まで見える夜空を眺めることで、ようやく決心がついた。
……北海道さんのことは忘れる。
あの人は俺のことなんて何とも思ってないんだから。
報われない恋などもうやめる。北海道さんのことなど忘れてぐっすりと眠るんだ。
しかし東京へ戻ると、北海道さんがいなくなっていた。
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