仁科愛美から河村一樹へ 6

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仁科愛美から河村一樹へ 6

 実習に来て一週間が過ぎた。  初日は、いきなり事件が起きてびっくりした。でも、その日以降は平和だった。  実習期間は十五日。これは、実際に実習を行なう日数。学校は土日休みだから、三週間滞在することになる。  河村君が殴られてから、一週間。彼は、あの三日後から試合だったはずだ。どうなったかな、と少し気になっていた。とはいえ、わざわざ彼の教室まで聞きに行くほどではない。  月曜日。今日もここまで平和に過ごせた。昼になって、牧田先生は、昼食を食べるために席を外していた。私も保健室を出る場合は、不在の札をドアに掛けておくように指示されている。  お腹が空いたし、昼食を買いに行こうかな。そう思って、保健室から出た。不在の札を掛けようとしたところで、廊下に、見知った顔を見つけた。  河村君だ。両手に、お弁当などの食べ物を抱えている。  私は、彼に軽く手を振った。  河村君が、小走りで近付いてきた。抱えている食べ物が落ちそうで、心許ない。私の近くに来ると、挨拶をしてきた。 「チワっす。先週はありがとうございました」  試合後のはずだけど、河村君の顔には、ほとんど傷がない。むしろ、先週よりも綺麗な顔をしていた。 「ううん。大丈夫?」 「あんな奴等に殴られたのなんて、全然」  笑いながら答えているが、河村君の顔には、どこか影があった。    もしかして、試合、負けちゃったのかな。だからこんな顔しているのかな。私は、素直に疑問を口にした。 「そっか。大丈夫ならよかったけど。試合、どうだった?」  空気が凍る、という表現を耳にすることがある。河村君に聞いた直後に、私はそれを実体験した。目の前の彼が、凍りついたように固まった。まるで、彼だけ時間が停止したかのように。  河村君の反応だけで、試合結果は一目瞭然だった。ただ、驚いた。彼が、こんな様子を見せたことに。  私は、高校時代、部活をしていなかった。何かに本気で打ち込んだ、という経験がない。元彼と出会って、付き合い始めて、何かに夢中になることもなく過ごして。  だから、試合での敗戦というのを、軽く見ていたのかも知れない。敗北が、本人の心にどれだけ大きな影響を及ぼすのか。まるで分かっていなかった。  河村君の時間が動き出した。彼は、苦笑にも似た笑顔を浮かべた。でもそれは、明らかに、苦笑ですらない。笑っていないと泣いてしまいそうだから、無理矢理笑っている。そんな笑顔。  元彼に裏切られたときに、私が、バイト先の社員さんの前で見せていた笑顔。 「いやぁ、今回も勝てませんでした」  明るい声で、河村君は答えた。笑顔の奥に見える泣き顔と、あまりにミスマッチな声。無理に明るく話しているのが、かえって痛々しかった。 「さすがに、一年のときから日本一になる奴は強かったですね。てか、あんな奴と戦った俺って、それだけでスゲーかな、って。うん、俺って凄い偉い」  戦っただけで凄いだなんて、彼は思っていない。戦っただけで凄いだなんて思っている人は、こんな顔しない。  勝ちたかったんだね。戦って、勝ちたかったんだね。だから、不良に殴られても我慢したんだよね。でも、勝てなくて、悔しいんだよね。  本心を隠して笑っている、河村君。その姿が、以前の自分と重なった。心に亀裂が入って、ガラスみたいに割れて砕けて。何もかもどうでもよくなるくらい、悔しくて、悲しくて。  あのとき、私は泣けなかった。泣けなかったから、すぐに発散することもできなかった。泣けなかったから、心に異物が残り続けた。心を重く暗くする、異物。  泣いていいんだよ。泣いて、スッキリした方がいいよ。そんなことを伝えるように、私の手は、自然と河村君の頭に伸びた。慰めるように、彼の頭に手を置いた。 「頑張ったんだね」  彼は、私よりも背が高い。でも私は、幼い子供をあやすように撫でた。 「頑張ったから、悔しいよね」 「――!」  ブルッと、河村君の体が震えた。目が見開かれた。両手に抱えた昼食が床に落ちて、ドサドサと音を立てた。  河村君の笑顔が消えてゆく。被った仮面が、割れてゆくみたい。無理に上げた口角が下がって、唇が震えていた。   河村君の目から、大粒の涙が流れてきた。大量の涙は彼の頬を伝って、顎先から床に落ちた。急激に溢れた涙は、彼が、どれだけ無理をしていたのかを物語っていた。  無理に笑って。決して、人前で泣かないようにして。  そんな彼を、こんな人目のつく場所で泣かせちゃいけない。  私は河村君の腕を掴んで、もう一方の手で保健室のドアを開けた。 「入って、河村君。牧田先生、今、お昼休みでいないから」  保健室に入ると、私は、不在の札をドアに掛けた。誰も入って来ないように。  河村君を、保健室の椅子に座らせた。彼は背中を丸めて、俯きながら泣いていた。泣き顔を隠すように。  私は、河村君の前でしゃがみ込んだ。自分の意思だけではどうしようもない現実。どうしようもない悔しさ。どうしようもない悲しさ。それこそ、自分の価値観も狂わせて、自暴自棄にさせるような。  今の河村君は、そんな気持ちを抱えている。  私はポケットからハンカチを取り出し、河村君の頬に当てた。そっと、涙を拭いた。 「私はボクサーじゃないから、河村君の気持ちが分かる、なんて言えないけど――」  河村君の目が合った。そこには、私の胸をまじまじと見ていた彼はいなかった。私と寝た男達とは違う、大切な何かがある人。大切なものに、真摯に向き合う人。  大切で、だから真剣に向き合って。だから悔しい。だから苦しい。 「――でも、悔しいのは分かるよ。どうしようもなくて、気持ちのやり場がなくて。本当に、何もかもどうでもよくなっちゃいそうで」  元彼に対して、私は真剣だっただろうか。たぶん、真剣だったんだろう。彼と一緒に、東京に行く決意をするくらいだから。  真剣で、本気で考えて。本気だから楽しくて。本気だから嬉しくて。  同時に、本気だから辛くて。  きっと私は、元彼に裏切られたとき、誰かにこうしてほしかったんだろうな。そんな気持ちが、行動に出た。立ち上がって、まるで子供を慰めるように、河村君を抱き締めた。 「そういうときは、泣いておいた方がいいと思うよ。私が言えることじゃないかも知れないけど、無理すると、本当に心が壊れるから」  言いながら、私は河村君の頭を撫でた。よしよし。頑張ったんだね。悔しいね。悲しいね。そんな言葉を胸の中で繰り返して、優しく撫でた。  しばらくの間、彼は、私の腕の中で泣き続けた。  
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