仁科愛美から河村一樹へ 5

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仁科愛美から河村一樹へ 5

 養護教員の実習が始まった。  実習先は、私の母校だった。  元彼と通っていた高校。元彼と付き合い始めた高校。  たぶん、私の人生は、元彼と付き合った瞬間から狂い始めていたんだ。ふと、そんなことを思った。  事件は、実習開始の初日に起こった。トイレで同級生に殴られた生徒が、保健室に連れて来られた。彼の顔の左側が、痛々しく腫れていた。  養護教員の牧田先生が、殴られた生徒に駆け寄った。 「先生達から連絡来たよ。トイレで殴られたんですって?」 「ええ、まあ」  この高校は進学校だ。それでも、一定数の不良はいる。そんな生徒は、どこにでも出てくる。ゴキブリみたいだ。 「とりあえず冷やしてから、病院に行きましょうね。仁科さん、氷、冷凍庫から取ってくれる?」 「はい」  牧田先生に指示されて、私は、氷嚢を棚から取り出した。午前中に、常備されている物の配置は教えてもらっていた。冷蔵庫の冷凍室を開けて、氷嚢に氷を詰め込んだ。  殴られた生徒に近付いて、彼の顔に氷嚢を当てた。殴られたらしいが、極端に腫れはひどくない。痛々しいけど、骨折の心配はなさそうだ。 「学年とクラスと名前、教えてくれる? 利用者の記録を取らないといけないから」 「三年四組のカワムラカズキです。『カワ』は()()()()の『河』、『ムラ』は市町村の『村』、『カズ』は数字の『一』で、『キ』は樹木の『樹』です」 「うん、ありがとう」  牧田先生の質問に、殴られた生徒――河村君は、落ち着いた様子で答えていた。とても、不良に絡まれた後とは思えない。怯えている様子など、微塵もない。  それでも怪我人だ。私は彼に聞いた。 「大丈夫?」  顔の左側に氷嚢を当てているので、私からは、河村君の顔半分しか見えない。彼は、右目を上目遣いにして私を見た。 「大丈夫ですよ。俺、こう見えて、試合控えたボクサーなんで。素人に殴られても大したことないです」    河村君の声には、余裕があった。  なるほど。ボクシングか。私は心の中で納得した。それなら、殴られても落ち着いていられるだろう。河村君は目線を下に落とした。彼が見ているのは、私の胸だった。  こんなときでも、男って、下心は消えないんだ。こんな奴ばっかり。  呆れながらも、私は、河村君の視線に気付かない振りをした。 「ボクシングやってるの?」 「ええ、まあ。今週の木曜から試合なんですよ。インターハイ予選です」  当然の疑問が、私の頭に浮かんだ。ボクシングをやっているなら、不良を殴り返すこともできただろう。試合に出るくらいの選手なら、なおさら。   「……殴り返そうとか思わなかったの?」 「はい?」 「トイレで殴られたとき」 「いや、俺が殴り返したら、それこそ大問題じゃないですか。試合に出られなくなりますよ」 「まあ、そうだろうけど」  確かに、河村君の言うことはもっともだ。不良を殴り倒したら、その瞬間に、彼は被害者から加害者に変ってしまう。  河村君の視線が、私の胸から顔に戻ってきた。その目は、私の胸を見ていたときとはまるで違っていた。必死で、真面目で、真摯な視線。 「どうしても戦いたい奴がいるんですよ。そのためなら、我慢だってできますよ」 「……」  河村君の言葉に、嘘は感じられない。けれど、すぐ後に、彼の表情が一変した。私をセックスに誘う男達と、同じような顔。 「それに、ボクサーの拳はリングで使うものですから」  変な子だ、というのが正直な感想だった。真摯で真剣な様子を見せたと思ったら、脳ミソが下半身にあるような様子も見せる。 『本当に真面目に、ボクシングやってるんだね』 『真面目な振りして、女の子が股を開いたら簡単に落ちるんでしょ?』  二通りの様子の河村君に、二通りの言葉が浮かんだ。心の中に言葉を閉じ込めて、無難なセリフを口にした。 「偉いし、格好いいね」  河村君は照れ臭そうに笑った。  しばらくして、男性の先生が保健室に来た。河村君を病院に連れて行くという。彼自身が平気そうでも、これは立派な傷害事件だ。検査と診断書が必要になる。  河村君は、明るい声で「お邪魔しました」と言って、保健室から出て行った。  本当に変な子だな。私と寝た男達と同じように見えて、でも、まるで違うようにも見えて。  無意識のうちに、誰にも聞こえないような声で、私は呟いていた。 「試合、頑張ってね」
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