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仁科愛美から河村一樹へ 7
久し振りに、ちゃんと化粧をした気がする。いつもは――元彼と別れた後は、常に手抜きだった。
着ていく服だって、久し振りに真面目に選んだ。「どうせ脱ぐんだから」なんて思って、手抜きの格好で男と出かけていたのに。
土曜日。休日。
私は、河村君と出かける約束をしていた。
彼を慰めたくて。元気付けたくて。少しでも気晴らしになればと、遊びに誘った。
私は、負けて落ち込む彼に、自分を重ねたのだろう。元彼に裏切られた自分を。絶望と失望の底にいる姿。
もちろん、河村君に彼女がいないことを事前に確認した。もし彼に付き合っている人がいるのなら、慰めるのは彼女の役目だから。
元彼に裏切られた私を慰める人は、誰もいなかったけれど。
午前九時を少し過ぎた頃に、私は家を出た。
実習中は実家に帰ってきていた。お父さんもお母さんも、シフト制の仕事をしている。もう、出勤していた。
今日はよく晴れていた。明るい初夏の日差し。街に向かう足取りは、軽かった。
地下鉄に乗って、待ち合わせ場所に来た。思ったよりも早く着いた。でも、河村君はもう来ていた。
「もう来てたんだ。ごめんね、待った?」
「いえ、俺も来たばっかりですから」
河村君は、学校で会うときよりも幼く見えた。ストライプのシャツにジーンズ、スニーカーの彼。服の上からでも、鍛えているのが分かる。反面、少年らしさも確かにあった。
河村君は、私をじっと見つめていた。どこか緊張しているようだった。もしかして、女の子と二人で出かけるのは初めてなんだろうか。案外、そうかも知れない。必死にボクシングに打ち込んでいたはずだから。それこそ、女の子と付き合うなんて考えられないくらいに。
河村君の緊張をほぐす意味も込めて、聞いてみた。
「河村君、朝ご飯食べた?」
彼は首を横に振った。
「いえ。実は、朝から何も食べてません」
彼は照れ臭そうに笑った。照れている理由は、よく分からなかった。
「じゃあ、とりあえず何か食べようか。あ、今日は私の奢りだから、お金のことは気にしないでね?」
「いや、俺だってそれなりに持ってきてますし、自分の分は出しますよ」
いい子だ。この子、可愛いかも。そんなにお金なんてないだろうに。つい私は、笑顔になってしまった。
「いいの。私が誘ったんだし。それに、私、バイトしてるけど、あまりお金使わないの。だから、それなりに余裕あるんだ」
これは嘘じゃない。お金を使う機会は、あまりない。私と寝た男達は、全員、食事代もホテル代も奢ってくれる。だから、遊ぶときもほとんどお金を使わなかった。バイト代は貯まる一方だった。
高校生の頃、度々、元彼と街でデートをした。あれから三年くらい経ったけど、ほとんどがあの頃と変らない。立ち並ぶ店舗も、東京に比べれば少ない人通りも、その場の雰囲気も。どこに何の店があるのかも、はっきりと覚えている。
元彼とは入ったことのない店に、河村君を連れて行った。昔行ってみたいと思っていた、結局行かなかった店。可愛い内装のカフェ。
店内に入ると、私も河村君も、パンケーキと紅茶を注文した。私が注文したのは、アップルシナモンとカスタードのパンケーキ。彼は、チョコとバナナと生クリームのパンケーキ。
注文が来た。
甘いパンケーキを美味しそうに食べる彼が、可愛かった。
食べながら、今までしていなかった自己紹介をし合った。
河村一樹君。彼のフルネームは、すでに知っている。ボクシングを始めたのは中学の頃。世界的に有名な日本人ボクサーに憧れたらしい。けれど、ボクシングをする目的は、いつの間にか変っていた。ずっと勝てなかった相手に勝ちたい。それだけになっていた。だから、大学やプロでボクシングを続けることは考えられないそうだ。
ちなみに、そんなストイックな高校生活だったから、彼女ができたことはない。女の子と二人きりで出かけるのも、これが初めて。
思った通りだった。だから、待ち合わせたときに、あんなに緊張していたんだ。
パンケーキを半分くらい食べたあたりで、河村君は手を止めた。じっと私を見て、どこか気まずそうに聞いてきた。
「今さらですけど、俺と二人きりで出かけて大丈夫なんですか?」
「ん?」
私は、口を付けていたティーカップをソーサーに置いた。
「何が?」
「いや、俺も男ですし。男と二人で出かけて、誤解する人とかいないんですか? 彼氏とか」
「……」
彼氏。その言葉を聞いて、元彼のことを思い出した。一緒に東京に行った人。好きだった人。でも、あの男は、私と寝た男達と同類だった。セックスできる女なら、誰でもいい男。
悔しさと惨めさが、心に染み渡る。私の心にある黒い異物は、まだ、溶けることなく残っている。
それでも、私は笑顔を見せた。こんな汚い話なんて、河村君にはしたくない。純粋な彼には、私がしていたことを知られたくない。
「今は彼氏いないから、大丈夫だよ。一年近く前に別れたから」
途端に、河村君の表情は明るくなった。
「意外ですね。モテそうなのに」
「そう? お世辞でも嬉しい。ありがとう」
「いやいや、お世辞じゃないですって。仁科さん、可愛いし、優しいし」
私は、つい、少し声を出して笑ってしまった。可愛いと言ってくれたのは、きっと、河村君の本心なのだろう。少なくとも、こんなお世辞をこんなに自然に言えるほど、器用な子だとは思えない。里香さんと寝た元彼と違って。私と寝た男達とも違って。
パンケーキを食べ終えて、紅茶を飲み干して、私達は店から出た。
さて、と心の中で呟いた。これからどうしようか。どうやって、河村君に気晴らししてもらおうか。
私の頭に浮かんだのは、カラオケだった。元彼と別れた後、思い切り歌って発散した。私にとっては嫌な思い出。心の不快感を、吐瀉物のように吐き出した思い出。でも、思い切り歌うのは気持ちよかった。
私は、河村君をカラオケボックスに連れて行った。
「思いっ切り歌って、思い切り発散しよう」
嫌なことを思い出したけど、私は笑顔を保った。
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