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仁科愛美から河村一樹へ 9
繁華街から少し外れた、ラブホテル密集地。立ち並ぶホテルの一つに、私達は入った。
河村君は、目に見えて緊張していた。頬が紅潮している。繋いだ手から、心臓の鼓動が分かる。ドクン、ドクン。
したかったんでしょ? セックス、したかったんでしょ? いいよ。してあげる。君も、あいつらと同じ。セックスができれば誰でもいい男。
部屋に入って、シャワーを浴びた。二人ともバスローブに着替えて、ベッドに倒れ込んだ。
河村君は、どうしていいか分からないみたいだった。だからリードしてあげた。体を密着させて、軽いキスをした。少しだけ口を開けて、舌で彼の唇に触れた。彼の口も開いたから、舌と舌を触れ合わせた。水音を立てて絡ませ合った。
二人ともバスローブを脱いで、裸になった。直接肌を触れ合わせて、体を重ねた。
この一年で、何人も相手にしてきた行為。この一年で、何人もの男を見下した行為。
ねえ、気持ちいい? ねえ、嬉しい? これが、君達が求めているものだよ。大切なものを裏切ってでも手にしたい、快楽だよ。
河村君が、私の上に乗った。彼にとって、初めてセックス。その動きは凄く不慣れで、不器用だった。
私は目を閉じた。暗くなった視界の中で、ただ思っていた。こんなもんか、と。こんなもんだ、と。
男なんて、やっぱり、こんなもんだ。
口から、浅く小さく声を漏らした。わざとらしくない程度に、艶っぽく。気持ちいい振りをした。そうすると、どんな男でも悦ぶから。
河村君の指先が、私の手に触れた。すぐに彼は、私の手を握ってきた。指と指を絡ませて。下腹部よりも熱を帯びている、彼の手。
手の感触に、私は、つい目を開けた。
河村君の顔が、目に映った。
いっぱい汗をかいている。頬を伝う汗が、一滴二滴、私の上に落ちてくる。快楽に悦んでいる顔じゃない。どこか苦しそうで、どこか切なそうで、今にも泣いてしまいそうな顔だった。でも彼は、決して悲しそうじゃない。
思い切り抱き締めたいのに、壊してしまいそうで怯えている。大切にしたいから、自分の欲求を抑えている。大切なものに触れられて、幸せで。でも、大切だから、好き勝手にできなくて。
そんな、河村君の表情。
今までの男達とはまるで違う、彼の顔。
「……あ……」
小さな声が、私の口から漏れた。意図して出した声じゃない。思わず漏れた声。
ようやく、私は気付いた。違うんだ、と。河村君は、あいつらとは違う。
河村君の唇が動いた。彼の唇が、私の名前を紡いだ。
「愛美さん」
カラオケボックスにいたときの気持ちが、私の胸に蘇ってきた。可愛い。この子が可愛い。好きなことに一途で、純粋で、ひたむきな彼が。
河村君の「好き」が、私に向いている。一途で、ひたむきで、純粋な「好き」が、私に向いている。
元彼の「好き」とは違う、河村君の「好き」が。
私の中の河村君に対する気持ちが、また反転した。
河村君に対する想いが、私の心に溢れた。
――愛おしい。
胸がジンと温かくなる。優しくなれる。大切にしたいと思える。そんな気持ち。
愛おしい。
けれど、たぶん違う。
これは、恋愛感情じゃない。きっとこれは、親が子に向ける感情に近い。恋愛感情じゃない、愛してる。
「一樹君」
私の口からも、自然に声が漏れた。可愛い彼の名を口にしたかった。彼の名前を口にして、ますます彼が可愛く見えて。
でも、可愛い彼と寝ているのは、私なんだ。心に黒い気持ちを抱えている、私なんだ。この一年、色んな男と寝た私。上に乗った男達を、見下してきた私。
河村君と自分を見比べて、恐くなった。彼と触れ合っている肌はしっとりと汗をかいているのに、鳥肌が立つほどの寒気を覚えた。
心の底から、強く、強く思った。
この子に知られたくない。
私が何をしていたか、知られたくない。
どうして私が彼と寝たのか、知られたくない。
里香さんと元彼の浮気を知る前。彼女のことを、こんなふうに思った。
『薄汚いクソ女。誰にでも平気で股を開く、下劣な女』
それは、今の私だ。バイト先の男全員と寝た。行きずりの男とも寝た。端から見たら、私と里香さんは同類だろう。
嫌だ。一樹君に知られたくない。一樹君に、そんなふうに思われたくない。
私は、一樹君を抱き締めた。彼の視界を狭めるように。彼が、私の姿すら見えなくなるように。
この体が離れたら。一樹君と一緒の時間が、終わりを告げたら。
私は、彼から離れよう。私の本当の姿に、彼が一生気付かないように。
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