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河村一樹から仁科愛美へ 6
試合の翌日の月曜日。
俺は、当たり前のように学校に行った。
本当はサボりたかった。でも、負けていじけてサボった、なんて思われるのも嫌だった。だから、重い気持ちを抱えながらも、ちゃんと登校した。
授業なんて聞く気になれなかった。俺の高校は進学校で、インターハイが終わったら、受験のことを考えないと駄目なんだけどな。
まったく集中できない午前の授業が終わって、昼休みになった。
俺は、一階の購買に足を運んだ。もう減量はない。好きな物を好きなだけ食べられる。二ヶ月後には国体予選があるけど、出場する気になんてなれない。
あいつはプロ入りする。国体予選には出てこない。そんな大会になんて、出る気になれない。勝ちたい奴がいない試合なんて、出るだけ無駄だ。
購買で、適当に昼飯を買った。とんかつ弁当にフライドチキン。チョコレート。意図的に、体重が増えそうな物を揃えてやった。
三年の教室は、校舎の三階にある。
購買から、階段に向かって歩く。両手に昼飯を抱えて。通り道に、保健室がある。つい一週間前に手当てをしてもらった、保健室。
保健室から、白衣を着た人が出てきた。仁科さんだった。
彼女は俺に気付いたようで、手を振ってきた。やっぱり可愛いな。
保健室の前まで行って、俺は仁科さんに挨拶をした。
「チワっす。先週はありがとうございました」
「ううん。大丈夫?」
「あんな奴等に殴られたのなんて、全然」
とはいえ、不良共の教室に行って半殺しにしたいくらいにはムカついているが。でも、今の俺がそんなことをしたら、単なる八つ当たりだ。あいつに負けたから、不良で憂さ晴らしをする。単なる弱い者いじめだ。そんな格好悪いことはしたくない。
「そっか。大丈夫ならよかったけど。試合、どうだった?」
仁科さんには、試合があることを話していた。当然、話題として出るだろう。
先週の俺は、あいつに勝つつもりだった。勝って、試合後に笑うつもりだった。笑いながら、周囲に話すつもりだった。
「今回は勝った。最後の最後で勝てた」
もちろん、仁科さんにも、挨拶がてらに報告するつもりだった。
「勝ちました。我慢した甲斐がありました」
でも、それは叶わなかった。
結局、俺の心には、どうしようもない悔しさだけが残った。
だけど、悔しさを表に出して、悲劇の主人公みたいな顔をするのも格好悪い。
だから俺は、無理矢理笑った。力一杯ヘラヘラして、事実を伝えた。
「いやぁ、今回も勝てませんでした」
試合結果を口にすると、それが事実だと痛感する。ずっとやってきた練習も、減量も、トイレで無抵抗を貫いたことも、全て無駄だった。そんな気にさせられる。
それでも、俺は全力で笑った。強引に口角を上げた。
「さすがに、一年のときから日本一になる奴は強かったですね。てか、あんな奴と戦った俺って、それだけでスゲーかな、って。うん、俺って凄い偉い」
んなワケあるか。戦うだけなら、誰だってできるんだよ。負けてもいいなら、適当な気持ちでリングに上がれるんだよ。勝ちたいから必死で、勝つからこそ価値があって、負けたら意味なんてねぇんだよ。
声とは正反対の言葉が、胸の中で繰り返された。勝ちたかった。勝たなきゃ駄目だった。負けたら、全て無駄になってしまう。耐えたことも、我慢したことも、必死になったことも、全部、全部。
俺は負けた。
全部、無駄になった!
笑う俺の前で、仁科さんは目を細めた。胸が苦しい。そんな顔だった。彼女の手が、俺の方に伸びてきた。俺より五、六センチ、背が低い彼女。その手が、俺の頭の上に乗った。
「頑張ったんだね」
切なそうに細められた、仁科さんの目。俺と彼女の視線が絡んだ。吸い込まれそうな感覚を抱かせる、彼女の瞳。
「頑張ったから、悔しいよね」
切なそうに目を細めているのに、どこか優しい仁科さんの顔。俺の頭に乗った、彼女の手。柔らかくて温かい、彼女の手。
「――!」
俺は目を見開いた。顔の筋肉に力を入れて、無理矢理上げていた口角。その力が抜けた。上げていた口角が下がった。両手から、抱えていた昼飯が落ちた。
駄目だ。駄目だ。
そう思っていても、堪え切れなかった。視界が歪んできた。もう止められなかった。
悔しい。苦しい。辛い。
そんな気持ちを吐き出すように、涙が出た。声だけは出さないように頑張った。けど、どうしても、涙は止められなかった。
仁科さんは、俺の腕を掴んだ。もう一方の手で、保健室のドアを開けた。
「入って、河村君。牧田先生、今、お昼休みでいないから」
牧田先生というのは、保健室の先生だ。
俺は仁科さんに手を引かれて、保健室の中に入った。彼女に促されて、室内にある椅子に座った。座りながら、背中を丸めて俯いた。
くそっ。何泣いてるんだよ? 格好悪ぃ。止まれよ、涙。止まれよ。出てくるなよ。
心の声とは裏腹に、俺の涙は止まらなかった。
思い出すのは、昨日の試合。勝ちたくて、必死だった。最後は捨て身で戦った。それでも勝てなかった。
ボクシングを始めたのは、テレビの中のボクサーに憧れたからだった。そのボクサーを表す「最強」という言葉に、憧れたからだ。
でも、あいつと初めて戦って。あいつに負けて。負け続けて。
俺が戦う意味は、ボクシングを始めたときとは明らかに変っていた。「最強」への憧れから、目標への到達へと。あいつに追いついて、追い越したい。それが、俺が戦う意味になっていた。
その目的が叶うことは、もう、ない。
涙を止めたくて、俺はきつく目を閉じた。負けて泣くなんて、格好悪い。こんな格好悪い姿を、仁科さんみたいな可愛い人に見られたくない。
ふいに、俺の頬に柔らかいものが触れた。無意識のうちに、俺は目を開けた。
俺の前で、仁科さんがしゃがみ込んでいた。上目遣いでこちらを見ていた。俺の頬の涙を、ハンカチで拭いてくれた。
「私はボクサーじゃないから、河村君の気持ちが分かる、なんて言えないけど――」
再び絡んだ、俺達の視線。俺の心を丸裸にするような、仁科さんの視線。どこか俺に共感しているような、彼女の視線。
「――でも、悔しいのは分かるよ。どうしようもなくて、気持ちのやり場がなくて。本当に、何もかもどうでもよくなっちゃいそうで」
仁科さんの言葉は、重かった。
『本当に、何もかもどうでもよくなっちゃいそうで』
彼女自身にそんな経験があるような、言葉の重み。
ハンカチを俺の頬から離すと、仁科さんは立ち上がった。泣いている俺の頭を抱えた。そのまま、自分の方に引き寄せた。
「そういうときは、泣いておいて方がいいと思うよ。私が言えることじゃないかも知れないけど、無理すると、本当に心が壊れるから」
俺の頭は、仁科さんに抱き締められている。彼女の胸に触れている。柔らかい感触が、頬に触れている。
それなのに、下心なんて一切出てこなかった。今日のオナニーに使おうなんて発想が、まるで湧き出てこなかった。
仁科さんは、いい匂いがした。優しい匂い。
こうやって彼女に抱き締められていると、胸の中の痛みが、全部溶かされる気がした。
このときに、たぶん。
――いや、絶対に。
俺の心は、彼女に奪われたんだ。
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