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河村一樹から仁科愛美へ 7
「もう来てたんだ。ごめんね、待った?」
「いえ、俺も来たばっかりですから」
嘘である。待ち合わせは十時なのに、俺がここに着いたのは九時だった。ソワソワして、落ち着かなくて、つい、必要以上に早く家を出た。
待ち合わせ場所に来てからも落ち着かなくて、何度も、反対車線にあるコンビニに足を運んだ。コンビニのトイレで、髪型のチェックを何度も繰り返した。
インターハイ予選の翌週の土曜日。
午前十時少し前。
学校は休み。
俺は、街中で、仁科さんと待ち合わせをしていた。
――あの日。仁科さんの前で泣いてしまった日。
俺が落ち着いてくると、仁科さんからこんな提案をされた。
「もし河村君に彼女がいないなら、今度の土曜日に、気晴らしに出かけない? たぶん、河村君、練習漬けであまり遊んでないでしょ?」
俺は二つ返事で頷いた。
自慢じゃないが、俺は判断力も洞察力も鋭い方だ。だから、とっくに自覚している。
俺は仁科さんに惚れてしまった。下心がなくても、セックスへの期待がなくても、彼女と一緒にいたい。惚れたという感情以外の何ものでもないはずだ。
まあ、セックスへの期待も何も、俺は童貞なんだけど。
あいつに勝つことに集中し過ぎて、そういうことにすっかり無頓着になっていたけど。
でも、初めてのお出かけで下心丸出しの男なんて、碌なもんじゃない。そういう意味では、セックスに無頓着なのは悪くない。
惚れた弱みとでも言うのか。俺は、待ち合わせ場所に来た仁科さんに見とれてしまった。
淡い色のプリーツコンビワンピース。まだ初夏と言っていい季節だから、寒くなることもある。そのためだろう、小脇にカーディガンを持っていた。肩掛けの白いバッグが可愛らしい。もちろん、仁科さん本人も可愛い。
可愛いけれど大人の女性。そんな言葉がピッタリだ。
仁科さんと並ぶと、どうしても、俺の子供っぽさが目立ってしまう。ストライプのシャツにジーンズ、スニーカー。どこからどう見ても普通の高校生だ。ボクサーという特徴を取り除いた俺は、本当に、ただの高校生に過ぎない。
「河村君、朝ご飯食べた?」
仁科さんの問いに、俺は首を横に振った。
「いえ。実は、朝から何も食べてません」
髪型のセットに手間取って、二回も風呂に入り直した。そのうえ、家にいると落ち着かなかった。朝食を食べるなんて発想はなかった。
「じゃあ、とりあえず何か食べようか。あ、今日は私の奢りだから、お金のことは気にしないでね?」
「いや、俺だってそれなりに持ってきてますし、自分の分は出しますよ」
仁科さんの分も出しますよ、と言えないのが悲しい。それでも、昨日、銀行からお年玉を下ろしてきたんだけど。財布の中には二万円。
「いいの。私が誘ったんだし。それに、私、バイトしてるけど、あまりお金使わないの。だから、それなりに余裕あるんだ」
笑顔で語る仁科さんに、何も言えなくなった。奢って貰うなんて格好悪いし、彼女の分も払って格好付けたい。そんなことを考えつつも、口が動かなかった。
ただ、仁科さんの笑顔に見とれた。綺麗で、可愛い。一日中、彼女を見ていられる。今までボクシングに――あいつに勝つことに集中していた気持ちが、今は、仁科さんに移ったようだ。
仁科さんに連れられて、俺達は、可愛い内装のカフェに入った。二人とも、パンケーキと紅茶を注文した。
食事中、自己紹介のようにお互いのことを話した。
仁科さん――仁科愛美さん。現在は大学四年の二十一歳。思っていた通り、養護教員の実習生だという。うちの高校の卒業生で、東京の大学に進学した。
ということは、実習が終わったら東京に戻るのか。しかも、今四年だから、卒業まではあと一年近く。
俺の頭の中は、もう完全に、仁科さん――愛美さんとの仲を進展させる方向に傾いていた。出会ってからの時間は短い。知り合ったのは先週だ。でも、世の中には、出会ったその日に惚れる人だっているんだ。それに比べたら、俺の気持ちなんて常識の範囲内だ。
愛美さんは、実習が終わったら東京に戻る。それなら、俺は東京の大学を受験しよう。そうすれば、距離が離れるのは一年弱で済む。
でも、一年か。長いな。
いやいや。でもでも。夏休みや正月には帰省するだろう。そのときに会えばいい。
ただ、問題は――
半分ほどパンケーキを食べた後で、俺は、じっと愛美さんを見た。
愛美さんは可愛い。さらに、周囲には大学生やバイト先の男もいる。となれば、当然、彼氏がいる可能性だってある。
仮に彼氏がいたとしても、愛美さんへの気持ちは、簡単には消えないだろう。もしかしたら、彼女が彼氏と別れるまで待ってしまうかも知れない。別れる保証なんてないのに。俺は諦めが悪いんだ。五回も六回も負け続けながら、それでも、あいつに勝つことを諦めなかったように。
彼氏の有無。それを、どうやって愛美さんから聞き出そう。直球で「彼氏いますか?」なんて聞きにくい。ちょっと一緒に出かけただけで惚れるような、気持ちの軽い奴――などとも思われたくない。
いや、愛美さんに惚れてるのは事実なんだけど。
考えた挙げ句、俺は、牽制のように聞いてみた。
「今さらですけど、俺と二人きりで出かけて大丈夫なんですか?」
「ん?」
ティーカップに口をつけていた愛美さんは、キョトンとした。口から離したカップを、ソーサーの上に戻した。
「何が?」
「いや、俺も男ですし。男と二人で出かけて、誤解する人とかいないんですか? 彼氏とか」
「……」
少しだけ、沈黙が流れた。一瞬だけ、愛美さんの表情が曇った。悲しいとか、苦しいとか、そんな類の曇り方ではないように見えた。どこか自棄的な曇り方。あいつに負けたときの、俺みたいな。
すぐに、愛美さんは笑顔になった。一瞬前の表情が、幻だったかのように。
「今は彼氏いないから、大丈夫だよ。一年近く前に別れたから」
愛美さんの回答を聞いて、俺の心は希望に満ちた。少し前の彼女の表情が、頭の中から消え去った。
フリーなんだ! 愛美さんはフリー! つまり、俺が口説いても問題なし! 別れるのを待つ必要もなし!
つい、椅子から立ち上がって拳を握り締めたくなった。そんな衝動を抑えて、俺は愛美さんに微笑みかけた。
「意外ですね。モテそうなのに」
「そう? お世辞でも嬉しい。ありがとう」
「いやいや、お世辞じゃないですって。仁科さん、可愛いし、優しいし」
彼氏がいないなら、俺と付き合ってください――その言葉は飲み込んだ。俺は恋愛初心者だが、それでも、軽い男が好かれないことくらいは想像がつく。もう少し親密になってからだ。実習期間中にできるだけ親しくなって、それから告白するんだ。
告白が成功しても、すぐに遠距離恋愛になるんだけど。それでも、だ。
俺の素直な褒め言葉に、愛美さんは小さく笑った。お世辞だと思われているようだ。くそ。お世辞じゃなく、正直な気持ちなのに。ただ、「好き」という言葉が抜けているだけで。
二人とも食べ終えると、近くのカラオケボックスに入った。時間制限のないフリータイム。
「思いっ切り歌って、思い切り発散しよう」
気持ちを盛り上げるように、愛美さんが言った。やっぱり可愛い笑顔。でも、どこか影のある笑顔。この笑顔も、あいつに負けたときの俺みたいで。彼女の笑顔には、どこか無理があって。
ふいに気付いた。
たぶん、一年前に彼氏と別れたときも、カラオケで発散したんだろうな。
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