28人が本棚に入れています
本棚に追加
河村一樹から仁科愛美へ 8
晴天の外とは違って、カラオケボックスの中は薄暗い。
二人用の個室。当然狭い。それだけ、愛美さんとの距離が近い。
カラオケボックスに来るのなんて、二年ぶりくらいか。一年のときにあいつと初めて戦って、負けた。それから、すっかり遊びに出なくなっていた。
狭い個室で、たまに食べ物や飲み物を注文しながら、二人で歌った。一緒にタッチパネルで曲を探した。必然的に、俺達の距離は近くなっていった。
愛美さんの肩が俺の肩に触れたとき、心臓が高鳴った。タッチパネルを持つ手が触れ合ったとき、そのまま手を握ってしまいたかった。彼女が食べ物や飲み物を口にするとき、どうしても、その唇の動きに注目してしまった。
カラオケボックスの薄暗さが、愛美さんの可愛さに、艶っぽさを加えていた。
彼女と出かけることになったとき、確かに下心なんてなかった。セックスすることなんて、考えなかった。もちろん、今も考えていない。
ただ、彼女に触れたかった。肩が触れ合ったとき、引き寄せたくなった。顔が近付いたとき、その頬に触れたくなった。飲み物で彼女の唇が濡れたとき、その唇にキスをしたくなった。
俺は童貞だ。セックスへ持ち込む展開なんて、考えられない。ただ、愛美さんを抱き締めたい。
暗い室内と、目の前の好きな人。その状況は、俺の計画を理不尽に崩壊させた。
告白したい。実習が終わる直前まで待てない。自分の気持ちを伝えたい。彼女の、一年振りの彼氏になりたい。
好きな人との時間は、驚くほど過ぎるのが早い。気が付くと、もう午後七時になっていた。歌いながら愛美さんを見つめて。歌っている愛美さんを見つめて。食べている愛美さんを見つめて。飲んでいる愛美さんを見つめて。そうしている間に、いつの間にか七時間も経っていた。
「そろそろ出ようか」
終わりを告げてきたのは、愛美さんだった。
「あ……」
まだ帰りたくない。まだ一緒にいたい。なんなら、一晩中一緒にいたい。そんな気持ちを表すように、声が漏れた。
体が勝手に動いて、愛美さんの腕を掴んでしまった。
「どうしたの? 河村君」
微笑みながら、愛美さんが聞いてきた。急に腕を掴まれても、戸惑う様子はない。カラオケボックスの暗がりで、彼女の表情は、驚くほど艶っぽかった。思わず抱き締めてしまいそうな艶っぽさ。
「いや、あの……えっと……」
俺は言葉に詰まった。告白なんて、今までしたことがない。どう言っていいか分からない。
どうすればいい?
ふいに考えたのは、俺に告白してくれた女の子のことだ。あの子達は、どうやって俺に告白してくれた? 何て言ってくれた?
「好きです」
告白してくれた女の子の言葉で思い出せたのは、これだけだった。好きです。単純で、直球で、素直な気持ち。
俺の口から漏れた本心。
頭の中がパニック状態だった。この後、どんな言葉を続ければいいんだろう。何て言えばいいんだろう。好きだから、付き合ってください? 好きだから、今夜は一緒にいてください?
駄目だ。考えがまとまらない。
俺の目の前で、愛美さんは、どこか悲しそうな顔になった。それでも、目を細めて微笑んでいた。
彼女の両手が、俺の方に伸びてきた。柔らかい彼女の手が、俺の両頬に触れた。
愛美さんの顔が、俺の方に近付いてきた。彼女がこれから何をしようとしているのか、すぐに理解できた。俺も、そうしたいと思っていた。それなのに、俺は、まったく動けなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに。
愛美さんの顔が、俺の顔に近付いてくる。近過ぎて、もう、彼女の顔全体が見えない。
俺は、殴られるときも目を閉じない。相手が殴ってきたら、そのパンチをしっかりと見る。
でも、今は目を閉じてしまった。愛美さんの顔が近付いてきて、怯えたように目を閉じてしまった。
やがて、俺の唇に、柔らかい感触。少し湿った、唇の感触。
愛美さんの唇が、俺の唇に触れた。
洋画やドラマで見るような、舌を絡めるキスじゃなかった。そんなキスの仕方なんて、俺には分からない。それでも。触れるだけのキスでも、俺の胸は痛くなった。異常なほど、心臓が速く動いていた。
胸が痛いのに、ずっとこのままでいたい。ずっと、唇と唇を重ねていたい。
当たり前だけど、そんな願望は叶わなかった。ほんの数秒で、愛美さんの唇は、俺の唇から離れた。
「ね、河村君」
「……はい」
「河村君って、お泊まりとかは大丈夫なコ?」
「……一応、ウチに連絡しておけば」
俺は恋愛初心者だ。
でも、愛美さんの言葉の意味が分からないほど馬鹿じゃない。
最初のコメントを投稿しよう!