河村一樹から仁科愛美へ 8

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河村一樹から仁科愛美へ 8

 晴天の外とは違って、カラオケボックスの中は薄暗い。  二人用の個室。当然狭い。それだけ、愛美さんとの距離が近い。  カラオケボックスに来るのなんて、二年ぶりくらいか。一年のときに()()()と初めて戦って、負けた。それから、すっかり遊びに出なくなっていた。  狭い個室で、たまに食べ物や飲み物を注文しながら、二人で歌った。一緒にタッチパネルで曲を探した。必然的に、俺達の距離は近くなっていった。  愛美さんの肩が俺の肩に触れたとき、心臓が高鳴った。タッチパネルを持つ手が触れ合ったとき、そのまま手を握ってしまいたかった。彼女が食べ物や飲み物を口にするとき、どうしても、その唇の動きに注目してしまった。  カラオケボックスの薄暗さが、愛美さんの可愛さに、艶っぽさを加えていた。  彼女と出かけることになったとき、確かに下心なんてなかった。セックスすることなんて、考えなかった。もちろん、今も考えていない。  ただ、彼女に触れたかった。肩が触れ合ったとき、引き寄せたくなった。顔が近付いたとき、その頬に触れたくなった。飲み物で彼女の唇が濡れたとき、その唇にキスをしたくなった。  俺は童貞だ。セックスへ持ち込む展開なんて、考えられない。ただ、愛美さんを抱き締めたい。  暗い室内と、目の前の好きな人。その状況は、俺の計画を理不尽に崩壊させた。    告白したい。実習が終わる直前まで待てない。自分の気持ちを伝えたい。彼女の、一年振りの彼氏になりたい。  好きな人との時間は、驚くほど過ぎるのが早い。気が付くと、もう午後七時になっていた。歌いながら愛美さんを見つめて。歌っている愛美さんを見つめて。食べている愛美さんを見つめて。飲んでいる愛美さんを見つめて。そうしている間に、いつの間にか七時間も経っていた。 「そろそろ出ようか」  終わりを告げてきたのは、愛美さんだった。 「あ……」  まだ帰りたくない。まだ一緒にいたい。なんなら、一晩中一緒にいたい。そんな気持ちを表すように、声が漏れた。  体が勝手に動いて、愛美さんの腕を掴んでしまった。 「どうしたの? 河村君」  微笑みながら、愛美さんが聞いてきた。急に腕を掴まれても、戸惑う様子はない。カラオケボックスの暗がりで、彼女の表情は、驚くほど艶っぽかった。思わず抱き締めてしまいそうな艶っぽさ。 「いや、あの……えっと……」  俺は言葉に詰まった。告白なんて、今までしたことがない。どう言っていいか分からない。  どうすればいい?   ふいに考えたのは、俺に告白してくれた女の子のことだ。あの子達は、どうやって俺に告白してくれた? 何て言ってくれた? 「好きです」  告白してくれた女の子の言葉で思い出せたのは、これだけだった。好きです。単純で、直球で、素直な気持ち。  俺の口から漏れた本心。  頭の中がパニック状態だった。この後、どんな言葉を続ければいいんだろう。何て言えばいいんだろう。好きだから、付き合ってください? 好きだから、今夜は一緒にいてください?  駄目だ。考えがまとまらない。  俺の目の前で、愛美さんは、どこか悲しそうな顔になった。それでも、目を細めて微笑んでいた。  彼女の両手が、俺の方に伸びてきた。柔らかい彼女の手が、俺の両頬に触れた。  愛美さんの顔が、俺の方に近付いてきた。彼女がこれから何をしようとしているのか、すぐに理解できた。俺も、()()()()()と思っていた。それなのに、俺は、まったく動けなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに。  愛美さんの顔が、俺の顔に近付いてくる。近過ぎて、もう、彼女の顔全体が見えない。  俺は、殴られるときも目を閉じない。相手が殴ってきたら、そのパンチをしっかりと見る。  でも、今は目を閉じてしまった。愛美さんの顔が近付いてきて、怯えたように目を閉じてしまった。  やがて、俺の唇に、柔らかい感触。少し湿った、唇の感触。  愛美さんの唇が、俺の唇に触れた。  洋画やドラマで見るような、舌を絡めるキスじゃなかった。そんなキスの仕方なんて、俺には分からない。それでも。触れるだけのキスでも、俺の胸は痛くなった。異常なほど、心臓が速く動いていた。  胸が痛いのに、ずっとこのままでいたい。ずっと、唇と唇を重ねていたい。  当たり前だけど、そんな願望は叶わなかった。ほんの数秒で、愛美さんの唇は、俺の唇から離れた。 「ね、河村君」 「……はい」 「河村君って、お泊まりとかは大丈夫なコ?」 「……一応、ウチに連絡しておけば」  俺は恋愛初心者だ。  でも、愛美さんの言葉の意味が分からないほど馬鹿じゃない。
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