ゆきとを手放した理由

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 パートナーや親に味方になってもらえなかったからというのは言い訳にすぎない。シングルマザーになったとして、ひとりきりでは我が子を不幸にするだけで、子のためを思ってというのも綺麗事にすぎない。私はエゴと惰性で、自分のこれまで通りの堕落しきった人生を続けることを選んだだけ。子の命を手放してでもやりたいこと、叶えたい夢なんてなかったし、少しの価値もない守る必要もない人生だったのに。  何もない人生で、あの子は私の人生を変えてくれる唯一の希望の光だったはずなのに…。  妊娠中、身体だけは正直で、赤ちゃんを産むため日々変化していたのに、自分を変える勇気や自信がなかった。産むと決めて、日常を変えることに抵抗があった。結局私は、我が子の命より自分の保身を選んだだけ。だから中絶手術を受けて、我が子という大切な存在を私の人生から消去した。  子宮から主がいなくなっても身体は子がいると錯覚して、しばらくは胸の張りや関節の緩みは続いていた。そのうち妊婦のような身体の変化は収まり、生理が再開する頃には味覚も元に戻っていた。  身体面は戻ったように見えて、精神面だけは妊娠前には戻れなかった。手放してしまった「ゆきと」と名付けた子を思うと、いつでも涙が溢れた。この世から消してしまったことがつらいと思う反面、ゆきとのことを考えると必ずやさしい気持ちにも襲われた。甘い私は妊娠と中絶をなめていた。中絶手術なんて、腫瘍を摘出する手術と同じようなものと割り切り、どうにか乗り切ったつもりになっていたけれど、全然違った。子の命を胎内から追い出しても、子がもたらしてくれた母性は体内に残ってしまうことに気づいた。子がいなくなっても、母性だけは消えてくれなかったから。  もういないゆきとのことを考える度に温かい気持ちになるのは母性のしわざに違いなかった。消えない母性がどうしてもゆきとに会いたいと駄々をこねて、私に涙を流させているようだった。中絶後、昼夜問わず泣き続けた一年はまるで自分の方が赤ちゃんみたいだった。我が子には一度も泣かせてあげられなかったというのに、私ばかりこんなに泣くなんて情けないと思った。一年以上経過しても、涙は定期的に溢れた。特に生理前や生理中は、子宮がゆきとを思い出すらしく、ゆきとがこの世にいないことに何度も絶望した。自分のエゴで消したんだから、本当は絶望する資格もないはずなのに。  火葬の義務がある12週以降の中絶ではなかったから、亡骸を引き取らせてもらうこともできなかった。私は一度も我が子を直に見ることなく、触れることもなく、お別れしていた。本当はせめて引き取って、ずっと側に置いて、供養し続けたかった。手元に残ったゆきとの命の証は、命の影が映っている白黒のエコー写真だけだった。  いつでもゆきとと一緒に居たくて、エコー写真をコピーしてキーホルダーを作った。それは車の鍵とショルダーバッグにつけた。そうしておけばいつでもどこへでも一緒に行けると思って。そのうち空や花や雪、イルミネーションなど、きれいな景色を背景にキーホルダーのゆきとをスマホで撮影するようになった。我が子に見せたかった美しいものたちを教えてあげたくて。撮影する景色が変わる度に、ゆきとの写真も変化するようでうれしかったけれど、実際は成長することのない胎児のままの変わらない姿のゆきとに寂しくなったりもした。ゆきとの成長と時間を止めたのは他の誰でもなく、私なのに。  スマホで撮影したきれいな景色の中のかわいいゆきとの写真はプリントして、部屋の壁一面に貼るようになった。一年もすれば四季折々の表情を見せるゆきとのアルバムが完成していた。数パターンしかないモノクロのエコー写真は気づけば、数え切れないほどのカラフルな新たな写真に生まれ変わっていた。写真を見る度にゆきとがもういない現実を突きつけられて、つらくなるけれど、相変わらず消えてくれない母性のおかげで必ず心は温かくなった。ゆきとの写真が更新される度に、幸せな気持ちになった。  写真だけでは満たされない私は、いつの間にかゆきとが登場する我が子に読み聞かせたい童話や物語をたくさん綴るようになっていた。物語の中では、ゆきとは自在に成長するし、ちゃんと生きていた。私はゆきとを生かしたかったんだと気づいた。ゆきとを生かすために童話でも小説でも何でも書き続けようと思った。それしか消してしまった我が子を生かせる術はないとも気づいたから。  中絶の罪滅ぼしではなく、産めなかった子をどうにかしてこの世で生かしたいという思いが強まった。ゆきとのことを思い出すことはつらいことでもあるけれど、それ以上に幸せな気持ちになれるから、思い出さずにはいられないし、忘れられなかった。忘れたくなかった。命の始まりと終わり、命のたくましさと儚さを命懸けで、愚かな私に教えてくれたやさしい我が子のことを忘れることなんてできなかった。  深夜、ベッドに横向きに寝ると、自分の心音が聞こえる。目を閉じてその音に耳をすます度に、ゆきとが見せてくれた心拍を思い出した。私の鼓動なんかよりもっと速かった。トクトク、トクトク…生き急ぐようなスピードで命を刻んでいた。今まで見てきたものの中で一番輝いているように見えたし、何よりも大事で、止まることなくずっとこの拍動が続いてほしいとあの時、確かに願ったのに、その宝物を私は守るどころか、子宮から追い出し、捨ててしまった…。  夜空に瞬く星をみつける度にゆきとの心拍を思い出した。溶けて消えてしまう雪に触れる度に、ゆきとの命を思い出した。何をしていても、どこにいても、ゆきとのことばかり考えてしまうのに、消してしまったから、もうどこにもいない…。  ゆきとがいないことが悲しくて寂しくて虚しくて絶望感に押しつぶされそうになると必ず、私は我が子が登場する物語を書いて、自分の母性をどうにかなだめた。消してしまったあの子のことは、自分の力で生かし続けるから大丈夫だよと、あの子がくれた大切な母性に語りかけた。  パートナーも母もゆきとのことはもう考えたくもないみたいだし、口に出すこともない。誰も認知してくれなかった見捨てられた命だからこそ、私は密かにゆきとを生かすことに躍起になっているのかもしれない。  誰にも認められなかった命だから、私が死んでしまったら、本当の意味でゆきとという存在はこの世界から消えてしまう。それだけはたまらなく嫌だ。だからどんなにつらくても私はなるべく長生きしなきゃいけない。けれどいつか必ず寿命は尽きるから、それまでの間にゆきとが登場する物語をまとめて、出版することが私の使命と思えるし、生きがいになっている。自分の欠片なんて別にこの世に何も残らなくていいけど、消してしまった子のことだけはどうしても残したい。自分以外の誰かの心にゆきとという存在を残すことができない限り、死ねない。  どうやら今の私は保身のために消した我が子に生かされているらしかった。あの子の存在を文章の中で生かすことで、生きているから。じゃあ中絶して消した意味はなかったのではないか。もう二度と会えない命だから、中絶なんてしなきゃ良かったと後悔することも多い。けれど落ちこぼれの私が無理してシングルマザーになり、出産・育児を強行したとして、それが上手くできたとも思えない。ワンオペでゆきとにつらく当たって、産まなきゃ良かったなんて口にしてしまった可能性もある。そんな残酷なことを考えてしまうくらいなら、やっぱり産めば良かったと後悔している方がマシだ。その方が、一生、ゆきとを愛し続けることができると思うし。ゆきとを早いうちに消したおかげで、愛情だけが残って、嫌いにならなくて済んだから良かったと、都合よく解釈することしかできない。あの子の命はもう二度と戻らないのだから…。  我が子を消した理由はきっと、ゆきとを生涯愛し続けるため。  それから何もなかった自分の人生に生きがいを見出すことにもなった。自分を大事にできない質の私は、目標も夢も何もなかったけれど、我が子を手放したら、何が何でもゆきとを生かさなきゃという思いが自然と湧いた。大事な存在を生かすために書くことをやめられなくなったし、本の中にゆきとを残したいという夢が芽生えた。  けれどそんなことを考えてもすぐに虚しくなる。本当は、タフな母親なら、誰に頼らなくてもひとりでゆきとを産んで、守れたはずという欲望も消えないから。本の中にゆきとを残すより、作家になるより何より、母親になって命懸けで産んで必死に育てている人の方が羨ましいし、尊く思えるから。何になれなくても私は、本当は母親になりたかった。ゆきとを産んで育てられる強い母親になりたかった…。  だからゆきとを消した本当の理由はたぶん、そのことに気づくためだった。手放さなきゃきっと分からなかった。ゆきとがくれた母性が消えないことも、母親になりたいと願う本能にも気づけなかった。出来損ないの私は、我が子を失くさなきゃ気づけないことばかりだった。  ごめんね、ゆきと。ゆきとと出会ってしまったら、ゆきとがいなきゃ生きられない自分になるって気づくのが遅くて。どんなに泣いてもゆきとは帰って来ないし、いつか死ぬ時が来ても再会できないことも分かっているよ。だから神社に行く度に願っているよ。ゆきとの魂が居心地の良い場所で安らかでありますように、できればやさしい人たちの元で生まれ変われますようにと…。  愚かな母は、良い子のゆきとに生かされて生きているよ。ゆきとのことを思って写真を撮って、文章を書いて、人知れず消され、生まれられないゆきとのような存在がたくさんいることをこの世に広めて、亡き命たちを生かすことが生きがいになったよ。馬鹿だよね、お別れしなきゃ気づけなかったなんて…。  ゆきとがくれた母性ももちろん残っているけれど、妊娠すると生涯に渡って最後に子宮に宿した胎児由来の細胞が母親の身体の中に残る場合があると知って、もしかしたらゆきと由来の細胞も私の体内に残っているかもしれないと気づいたよ。胎児の方にも母親由来の細胞が一部受け継がれ、つまり細胞交換したことになるから、私の一部はゆきとと一緒にあの時、確かに死んだと思う。私はゆきとと一緒に一度、死んだの。少なくとも心は死んだ…。けれどゆきとが残してくれた母性のおかげで、生かされてる。手放したゆきとを生かすために生きろと生命力の弱った私を母性が励ます。  ゆきとは今でも希望の光だよ。命の灯火は消してしまったけれど、存在は消えない。消さないから。命を育む部屋からは追い出してしまったけれど、心の奥底でゆきとの存在を生かして、根付かせているよ。心の中で根を張ったゆきとは花のようにつぼみとなり、何度も開花してくれたね。たくさん命の花を見せてくれてありがとう。私が生まれなくても別に良かったって思ってしまうように、ゆきとの方は案外、生に執着していなくて、別に生まれなくても良かったんだよと思っているかもしれないね。子の命にこだわるのは親のエゴだけだから。もしかしたら消されると分かっていて、私に足りなりかったものを与えるために、私の元へ来てくれてありがとう。ずっと誰より大好きだよ。  親になるって、馬鹿になること、身勝手になること、きもいこと、正気じゃいられないことって分かったよ。ゆきとを授かるまではどうして自分の親は子どもたちのことばかり考えてるんだろうって気持ち悪かったし、馬鹿だなって思ってたの。けれど妊娠したら、中絶しても、ゆきとのことを一番に考えてしまう自分がいることに気づいて、母親失格の私も親になれたのかなと思ったよ。ゆきとが私以外の誰にも認めてもらえなかったことがたまらなく悔しい。この世界にゆきとの居場所がほしかった。ゆきとの味方になってくれる人がたくさんいてほしかった…。未だにそんな勝手なことばかり考えてしまう私はきっと正気じゃないね。ゆきとを失ったら、そんな親心まで分かるようになってしまったよ。ゆきとを消したら、知らなかったたくさんの気持ちに気づけるようになってしまったよ。 e8700a77-e874-417c-b307-468a836caaec
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