エレベーターの扉は勝手に消える

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エレベーターの扉は勝手に消える

わたしは方向音痴である。 どのくらい方向音痴かと言うと、ツバメやオオカバマダラに鼻で嗤われるレベルである。 北から歩いて来た道を南に向かって戻る途中でさえ迷う。帰巣本能は母の子宮に置き忘れてしまったらしい。 ついでに言っとくと、わたしは左右の認識もあやふやなところがある。我が家はわたしを頭に弟妹が年子で三人。小さな子供のいる食卓は常時戦争状態。母は常に両脇に弟妹を抱えていた。食事の時はわたしは父と並んでその向かいに座ってもそもそ食べる。目の前の母の真似ばかりしていたらいつの間にか箸は左手で定着していた。気付いた母が慌てて矯正に乗り出したおかげで右手でも箸が使えるようにはなった。左右どちらか迷った時「お箸を持つほうが右って覚えておくのよ」といつも母が声をかけてくれるが左右どっちでも箸が使えるので役に立ったことがない。 そもそもちゃんとした大人になると、どっちが右でどっちが左かで迷うことはないものらしい。 そんなわたしにも運転免許書を発行してくれるこの国って太っ腹だ。危機管理がなってない。わたしがエラい人ならばこんな鮭にも悖る輩に国家資格なんて与えないけれどね。というか自分自身の平穏無事な人生の為にペーパードライバー一択だ。この世を去るその日までゴールド免許の更新は続く予定。 しかし人類にはわたしには無い叡知がある。優れた先人達による発見発明科学技術発展の恩恵は、地図も読めないわたしに移動の自由を与えてくれた。 ありがとう、GPS。ありがとう、カーナビ。ありがとう、スマホ。 あなた達とあなた達を産み出してくれた偉人達のおかげで、わたしは今日も最短時間最安値でもって最愛の推しの元に駆けつけることが出来るのよ。 そんなわけで、今日もわたしは追っかけ、ンンッ、愛しい推しに逢いにやって来た。 杏梨(あんり)くんはソロ歌手(シンガー)で、この二年ほどは人気ゲームのイケメン役で舞台にも立っている。 雪花石膏(アラバスター)のすべすべお肌に長い睫毛に縁取られた瞳は榛色。形の良く高すぎない鼻に桜色の唇。栗茶色(マロンブラウン)の髪はふわふわ綿毛のよう。もともと可憐な美少年だったけど、近頃は役のせいか少し大人びてきて背も延びて。でも美青年と呼ぶにはまだ早い。童顔の杏梨(あんり)くんは年齢公表していないけれど十代後半で通るだろう。余談だけれど杏梨(あんり)くんの腰の細さは人間離れしている──正しくは日本人離れなのだが──とSNS界隈で話題になったことがある。何でも昔の言葉で細い腰を誉める際はジガバチに例えたり、鹿に例えたりしたそうで「ハチより細い腰とかヤバい」「細腰にスガルって」と大騒ぎになった。スガルというのはジガバチの古名なんだとか。わたしも杏梨(あんり)くんの細腰ならすがりついてしまいたい。杏梨(あんり)くんが本当に十代だったら犯罪になりそうだけれど。こんな妄想で頭いっぱいにして街中歩いていもお巡りさんに咎められもしない日本っていいな。思想と思考内嗜好の自由万歳。平和は正義だ。 ライブは午後七時開演。明日もあるので本日はお泊まりだ。 愛用の老舗のビジネスホテルチェーンはお安いがベッドも廊下もエレベーターも狭く、今時の日本人やインバウンドといった体格の良い方々には不評だ。曰くカプセルホテルよりもベッドが小さくて狭いとか、廊下で人とすれ違う時はお互いが壁に背中をくっつけるのだとか、エレベーターには成人男性二人一緒に乗るのは質量的にも容量的にも無理だとか。 でも日本人女性の平均より五センチは低くコンパクトでインパクトも無い体型のわたしには無問題(モーマンタイ)。 おかげさまで観光ハイシーズンにもかかわらず部屋は毎回安定的にお安くゲットできて嬉しい。わたしは薄給な契約社員なので推しへの貢ぎ物以外への出費は出来る限り押さえたい。コンビニではなくローカルスーパーのお惣菜コーナーの割り引きシールを狙って遅い昼食と夕食夜食、明日の朝食を買い込む。わたしはビジネスホテルの回転扉の前に立つ。扉前の三段の階段にスロープはない。んしょんしょと、チェリーピンクのキャリーケースを抱え上げ、息つく暇なく回転扉を推すいや押す。キャリーケースとスーパーの買い物袋で両手が塞がっているのと、案外重たい回転扉に手間取ってしまった。 このホテルは全店、出入口が回転扉という特徴がある。しかも手動だ。重くてわたしが全身をかけて推しいや押しても、タイミング悪く逆回転させる思い込みの激しく力持ちな男の人と鉢合わせると押し戻されたりする。一度は押し戻され過ぎて百八十度、気付けば後ろ向きにロビーに入ったこともあった。もっと押されて元の位置に戻ってしまったこともある。押されるのは難しい。やっぱりわたしは推すほうがいいな。 トラブル防止の為に昔は専属のボーイさんがいたそうだけど、わたしが利用するようになっては見かけたことない。ぜひ復活させて欲しいと願う。 「ごゆっくりおくつろぎください」 フロント係のお姉さんの素敵な笑顔に見送られて、わたしはエレベーターに乗り込んだ。この笑顔はプライスレス。このホテルの系列店は従業員さんが皆魅力的。老舗だけあって従業員教育が行き届いているのだろう。小娘一人と侮らずにちゃんと一人前の客として扱ってくれる。 推しを追っかけあちこち泊まり歩くけど、社用ではない二十代の女一人の宿泊だと不愉快な扱いを受けることは珍しくない。チェックインやチェックアウトの手続きを男性客より後回しにされるなんて当たり前だし、予約しているのにわたしだけ前払いを要請されたりすることも。カード払いじゃなく現金で、とか預り金を要求されたこともある。プライスレス笑顔どころか無言でルームキーをチェックインカウンターに滑らせるだけの無愛想な対応も珍しくない中、このビジネスホテルチェーンでは一切そんなことはない。 わたしがこのチェーンを常宿にしているのはお安い以外にそういうところが気に入っているから。 もちろん身なりには気をつかっている。今日だって、麻のジャケットにブルーストライプのシャツブラウス、細身のスラックス。靴も革のローファー。小柄で垢抜けない顔立ちのわたしが着ると目新しい制服ね?みたいに見えるのが難点だけど、スーツでも変わった制服ねぇ、な扱いなのでどうしようもない。 「703号──七階ね」 目的階のボタンを押すとゆっくり扉が閉まる。フロントのお姉さんがもう一度にっこりと笑顔を向けてくれた。わたしもぎこちなく微笑んで会釈を返す。 これが平穏な日常の終わりだと、その時のわたしには気付くことができなかった。 ☆☆   ☆☆   ☆☆   ☆☆   ☆☆ チン、と。 軽やかな音が鳴った。軋むような異音と共に扉が開く。 目の前には、細く薄暗い廊下と両側に並ぶ扉達──。 ではなく。 「どこ、ここ」 暗い。 真っ暗ではないが、とにかく暗い。 視線を上げれば果てしなく天井が見えない。暗いせい、ではなくとにかく天井が高い。ここのホテルは十階建て。気分的には地上から最上階を見上げたくらいに顔を上げても終わりが見えない。おかしい。そもそもこのホテルは十階建てだし、このフロアは七階のはず。三階ぶんの天井ぶち抜いたところでこの高さは無い。ここはそんなラグジュアリーなホテルではないし、暗く湿っぽく、陰鬱で不穏で不快指数ぶっちぎるような設備を客に提供する羽目になった時点でラグジュアリーなんて表現は不適当なはず。 だってここ、どっからどう見ても洞窟。昔行った鍾乳洞を百万倍、(ぬめ)らせて不吉に仕上げたらこんな感じになると思う。 んにょ。 んにょ、んにょ。にょにょ。 上ばかり見ていた視界の端っこで何か動いた。動いた気がする。つるりん、としたクリーム色の──。 確認しなければ、いや、確認してはいけない。だいたいこういう不穏な事態に陥った場合、何を見たかより何も見なかったことが重大なのだ。見てしまった場合たいていろくなことにならないというのは万国共通のお約束である。波打つようにからだ?をくねらせ接近して来る友好的な生物なんてわたしの知る限りこの世にいない。 だって今、視界の端を(よぎ)ったの、ナメクジかカタツムリ──大きさが四階建てアパートくらいの。 そんなモノこの世にいない。異論は認めない。 いるとすれば異世界くらいだ。いやそんなまさか。エレベーターで七階に来ただけよ、わたし。 トラックに跳ねられてはいないし、溺れてもいない。階段から転落してもいないし、つい寝過ごして見ず知らずのきさらぎ駅に下車してもいない。 そもそも死んでないし──たぶん。 異世界転生も異世界転移もごめん被る。 いわゆるホラーでスプラッタな展開を望むキチガ……物好きならともかく、一般ピーポーなモブ系人種の精神衛生上も今後の予定の上でも。そう、何よりも今のわたしには今夜の推しのライブという重大な使命がある。ここは可及的速やかに戦略的撤退一択しかありえない。 それなのに。 無慈悲にも視界に広がるのは天井知らずの暗い洞窟。 「エレベーターどこ行った!?」 しまった。 くるりと振り返ったわたしはそこにあるはずのコンパクトなエレベーターが影も形もないことに焦って声を上げ、すぐに後悔した。 わたしの声は反響して思いの外長く大きくこだまして──何かがこちらへやって来る気配に溢れた。 その何かが友好的でないこと、はっきり言えば人間ではないこと、が気配でわかるほど禍々しい。 (まずいまずいまずいまずい) わたしの理解と常識の追っ付かない事態が起きている。 エレベーターの扉が開いただけでわたしは一歩も動いていないのに気付いたら洞窟の中。 ナニコレやっぱり異世界転移? 異世界しかもちょっとどころかかなりヤバめな異世界行きエレベーターなんて知ってたら絶ッ対に乗らなかった。 「と兎に角逃げなきゃ」 咄嗟に握ったままのキャリーケースを引きずってとりあえず左へ駆け出し、かけて直ぐに。 「はわっ!?わたたっ!」 動かないキャリーケースでバランスを崩し、転倒しそうになるところを必死に踏み止まる。 足元は当然廊下のように滑らかでなくて、ごつごつでこぼこした不安定な岩場だった。そうよね、洞窟なのに足場だけ廊下みたいなわけないわよねー、とわたしの中の1%くらいの冷静なわたしが納得している。その岩だかにキャリーケースの本体が引っ掛かって、ついでにタイヤも引っ掛かっていて。引っ張ったくらいでは動かない。 「やだぁ動いて」 禍々しい気配はさらに近づいて来ている。 心なしかスピードもぐんぐん上がってる感じがする。しかも数が増えているような……気のせいだといいな。 わたしは涙目で両手で全体重をかけて引っ張る。 つやつやチェリーピンクのキャリーケース。可愛くて一目惚れしてどうしても欲しくて睡眠時間を削ってシフトを増やした。ようやく手に入れたお気に入り。 だがしかし。 日本人女性の平均的体重よりも軽量なわたしの全体重では──無理。びくともしない。尖ってごつごつの足場のせいで可愛い可愛いチェリーピンクの本体(ボディ)にガリガリ傷が付いているのがわかる。可哀想で泣けてくるんだけど。 中身はライブに着て行くお洒落なワンピースにヒールの高い靴、下着にメイク道具に……のはず。何がそんなに重いのか。 昨日のわたし、いったい何入れたのよぉ! 「だいたい異世界転移とかだとチートとかなんとかあるんじゃないの?」 身体強化とか魔法とか強力な仲間とか。 それなのに。 か弱いわたしはキャリーケースひとつ運びかねていますぜったいに接触してはいけない禍々しい気配が近づいて来てますどっちに逃げたらいいのかもわからないし、あれ?これ詰んでる?わたしもしかしてもうすぐし──死ぬの? 身体の内側がすぅ、と冷えてぶるぶる震える。足なんか立っているのもツラくてキャリーケースにしがみつく。 怖い。 「やだぁ死にたくない。今夜ライブあんのに。今夜も明日も杏梨(あんり)くんに逢えるはずだったのに」 視界が滲んだ。ぽろぽろと涙が零れる。 怖い、怖い、怖い。 何でこんなことになったのだろう。 わたしはただエレベーターで七階に来ただけ。七階の部屋を割り当てたのはホテルの方でわたしじゃない。 そりゃ今日この街に来てこのホテルに泊まることを選んだのはわたしだけど、それは杏梨(あんり)くんのライブがあるからで。 どうせ死ぬなら杏梨(あんり)くんのライブの後がよかったよぉ。 足場がゴツゴツした岩場でところどころがってしていて、独特な不快な臭いが立ち(のぼ)るのもあって座り込むこともできない。頼りになるのはキャリーケースだけだ。ぎゅっ、と抱き付く。これが杏梨(あんり)くんならよかったのに、とかとりとめもなく考える。人間は死ぬ前にこれまでの人生が目の前に流れる、なんて聞いたことがあるけど浮かぶのは杏梨(あんり)くんの姿ばかり。最後の最後まで推しのご尊顔を、って四半世紀生きて来てそれでいいのだろうか、わたし。 ………! 腕の中でキャリーケースが身動(みじろ)ぎした、気がする。 え?何?気のせい? 戸惑う間にもキャリーケースは!? 思わず「ぎゃあッ!」と叫んでしがみついていた手を離す。 危うくしりもちをつくところだったがなんとか踏みとどまった。 けれどキャリーケースはにごろんと二回転して身震いした、したように見えた。 そして──。
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