騙り部

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(あ、凪乃君だ)    二年ぶりの大雪が交通網を麻痺させた朝、橋原風香(はしはらふうか)が作業場に入ると、そこには先客がいた。ひょろりとした背丈の、うなじまで隠れるような長い黒髪を携えた青年。随所に設置されているゴミ箱の袋を取り換え、一纏めにしているところのようだ。    凪乃透(なぎのとおる)。    風香が働く工場の契約社員。いわゆるパートという奴だった。大きくなったゴミ袋を抱えて振り返ったところで彼女に気付き、ギョッとした表情で立ち止まった。   「……っす」    思わず苦笑する。彼らしい挨拶の仕方だった。   「おはよう、凪乃君。電車動いてたの?」   「……近くのネカフェに泊まってました。雪が降るのはわかってたんで」   「相変わらず真面目だね。そこまでしなくてもいいのに」   「……そっちこそ、こんな時間に」   「だーって私は正社員だもん」 「関係ないでしょう」    わざと子供じみた言い方をして見せると、凪乃はようやく、少し表情を崩した。  それを見て、凪乃が意外に子供っぽい顔つきをしていることに気付いた。童顔が無表情と伸びた前髪で隠れていたのだろう。 「関係あるよ。パートの人とかばかりいても、外からの連絡とか対応できないでしょう? むしろ凪乃君こそ、もっとギリギリに来るようにした方がいいって。  ほら、前に木野さんが営業からの確認電話取った時あったじゃない? 結局内容わからなくて、そのままたらいまわしにした奴。 『二度も三度も説明させないで』って連絡してきた営業は怒ってたけど、そもそも始業前の早朝に連絡入れてくること自体が非常識だっていうのよ。なのに会社と来たら、社員の出社時間を早めろって言うだけで、それだって当の社員達は知らんぷり。 また何かあった時、怒鳴られるのは電話を取るパートさん達なのにね」 「はぁ……」 「だから命令です。次からはもっと遅い時間に来るようにしなさい。何なら正社員が来るまで更衣室とかで待機してればいいのよ」  凪乃は困ったように笑い、風香の主張を受け流した。  窓ガラスを叩くような音がして、二人が外を見ると、風に煽られ、雪は横殴りになっていた。まるで吹雪のようだ。 「すごい雪……いつぶりだろうね」 「珍しいですよね、こんな都心で」 「あ、でもね、ずっと前にあったのよ、今日ほどじゃないけど、大雪の日。その時誰だったっけ……そう、国光君! 凪乃君覚えてる?」 「えっと、工務担当の?」 「そう、工務の国光君。彼ったら、その頃はまだバリバリの若者って感じでね?   外の駐車場付近の雪かきを頼んでもいないのにやってくれたのよ。  それだけならまだよかったんだけど、よりによって雪を開けっぱなしにしてたゲートの傍に積み上げちゃってね、おかげで守衛さんが門を閉じれなくなっちゃって、結局出社してたパートさん総出で改めてどかしたの。  気遣ってくれるのは結構だけど、結果労力が増えてるんじゃ意味ないわよね」 「はぁ……」 「ひどい話だよね。そもそも社員さんの殆どがその日電車が止まってるからって休んでたんだよ?」 「そりゃあ、交通機関止まってたら来れないでしょうね」 「パートさんは何人も来てたのに? 今日の凪乃君もそうだけど、みんな頑張りすぎだよ」 「……雪とか台風の日は、みんな来るのが遅いから……早めに来て、代わりに作業を進めとかないと」  凪乃の言うところの「みんな」が、正社員のことを指していると、風香は気付いていた。    元々会社全体の傾向として、正社員よりも契約社員の方が出社時間は早い。それは社則などとは無関係に、契約社員側が、『そうしなければならない雰囲気』を感じとっているからだった。    反対に正社員の面々は、実におおらかな出社態度を取っている。契約社員が三十分前には現場での作業準備を進めているのに対し、正社員は十分前になってようやく現場へ顔を出す。機密保護の観点から持ち込みを禁止されている携帯も、彼らは平気で使っていた。 「……本当に、そうやって甘やかしちゃだめだよ? そりゃあ凪乃君達は出勤時間がそのままお金になるから頑張るのは分かるけど……だからって正社員がサボっていい理由にはならないんだから!」 「……だから、橋原さんは戦ったんですか?」  風香の肩が一瞬ピクリと動き、凪乃が小さく声を漏らす。  作業場内が沈黙に包まれ、雪が叩きつけられるピシピシという音が妙に大きく響いた。 「……えっと、なんでもないっす」 「……んーん、大丈夫。誰に聞いたの?」 「先輩から。この間橋原さんに会って、その時話を聞いたって」 「あー、そっか。……そんな高尚なものじゃないよ。会社には全然伝わらなかったし、他の社員も鬱陶しがるだけだったし。結局私、何もできないまま終わっちゃった」 「……あまり頑張らないでくださいね」  逸らしていた視線を戻す。ぼさぼさの前髪の奥で、凪乃の瞳はまっすぐこちらを見ていた。黒曜石のような、奇麗な黒い瞳だった。 「アハハ……言い返されちゃったね。それじゃあ、私は行くから。頑張ってね、凪乃君! 今度会ったら、いつかのお返しにコーヒー奢ってあげる!」  凪乃が目を見開く。     「ちょっと前、私が落ち込んでた時、凪乃君、コーヒー奢ってくれたでしょう? そのお礼、まだしてなかったから」     「……別に、気にしなくていいのに」     「そうもいかないよ……あ、そういえば、その日も雪降ってたね。今みたいな酷いのじゃ無かったけど。……あの時のコーヒー、すっごく美味しかった、本当にありがとう!」    凪乃は気まずそうに目を逸らしてから、風香へ向けて、深々とお辞儀をした。なんだか嬉しくなって、手を振り返す。考えてみれば、風香の頭にある思い出は、雪の日ばかりだった。それが何だかおかしく感じられる。  明日も会えるだろうか。明日も雪だそうだから、もし会えたら、また愚痴と大差ない雪の思い出でも、何か語り合おうか。      彼の黒い瞳がまっすぐこちらを見てくれたあの瞬間を、脳裏で何度も再生させながら、橋原風香は、作業場を後にした。 「……おーい、凪乃、おはよう」  男性の声がして振り返ると、凪乃と同じパートの先輩が入ってくるところだった。 「おはようございます。予定表出しておきました」 「おぉ、助かるわ。つってもこの天気じゃ、大して人は来ねぇだろうけどな。……また来たか?」 「えぇ、来てましたよ」 「そっかー……悪いな」 「いえ、別に……ちょっと怖かったっすけど」  先輩は苦笑しながら予定表を受け取ると、自分の作業へと入っていった。凪乃はそれを見送りながら、ようやく安堵の溜息をつく。  雪の日の早朝出勤は初めてだった。話に聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると、随所にあったその異質さに息が詰まった。  十数年前から、この会社には一つの怪奇現象が起きていた。      社員が不審な死を遂げるのだ。      不意に電車に飛び込んだ者がいた。      突然胃の中のものを全て吐き出したかと思えば、そのまま血を吐いて干からびた奴もいた。      乗っていた車が暴走してビルに突っ込んで、道連れを多数出したこともある。      トイレに行ったまま姿を消した者もいた。そいつは数日後、会社の前に積もっていた雪が溶けた折、頭だけがゴロリと出てきた。      それは全員、雪が降ってから最初に会社に来た者だった。死ぬまでに人と話す機会のあった者は一様に、出社時に奇妙なモヤを見た、という。その詳細を聞けた人はいない。      雪の日を休みにしても、翌日最初に足を踏み入れた社員が犠牲になる。そんなだから、上層はすっかり参ってしまっていた。      だが、犠牲者が誰も出ない時があった。それは最初に来たのが正社員ではなく、凪乃のような契約社員だった時だ。      それから、雪が降ると、まず契約社員が出社し、タイムカードを押したのを全員で確認してから、正社員達が出社するようになった。そうすれば、犠牲者は生まれない。      契約社員にはモヤではなく、30代と思しき女性の姿が見えた。それは会話が出来、様々なことを自分から話してくる。  橋原風香。正社員と同等の労働をパートに強いる会社へ抗議をしたが、訴えは退けられ、そのまま居場所を失ったという女。  国光という二十年以上昔の社員が起こした失敗を見てきたように語り、凪乃にコーヒーを奢られたことがあるという女。    確かに大雪の日、先輩にコーヒーを奢ったことはある。  だがそれは彼女ではない、別の社員だ。      あの女は誰なのだろう。      自分の顔を知り、自分との思い出を騙る彼女。      うちの会社の制服を着ているけれど、橋原風香などという女が当社に在籍した記録は、過去にも今にもない。      だが深呼吸をして落ち着いた今、凪乃は恐ろしさ以上に、彼女へ腹立たしさを覚えていた。  なにせパートの地位向上を叫んだという彼女の行動が、結果としてパートの人間に、余計な仕事をさせる羽目になっているのだから。
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