夏の食卓

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夏の食卓

 その夜、桃矢様とふたりで布団を並べて寝る際、桃矢様に尋ねた。 「あのう、桃矢様。今度離れに当主様を招待して食事会を開きたいのですが、よろしいですか?」 「……父が来るんですか?」 「はい。既に執事さんを通して、当主様の空いた予定を埋める許可を打診しております……駄目でしょうか?」  私がおずおずと桃矢様を見ると、桃矢様は溜息をついてから、私の髪をひと房取ると、そこに鼻をくっつけてきた。ふたりで寝ているとき、たまにこういう悪戯をしてくるようになったのでむず痒くなる。 「あのう、真面目な相談をしているんですよ?」 「知っていますよ、いろりさん……だってあなた、湯浴みしてもなかなか葡萄酒と赤茄子の匂い、取れなくなってるじゃないですか」 「……それは」  汗を掻きながら台所に立ち、女中さんたちとああでもないこうでもないとビーフシチューの試作と味見を繰り返していた。そのたびに湯浴みはしていたものの、まさか匂いが染みついてしまったとは思わず、私は縮こまった。 「すみません……匂いが落ちなくて」 「じゃあ今度一緒に湯浴みしましょう」 「……はい?」  着替えこそ一緒の部屋でするようになったものの、相変わらず夜の営みとは無縁な生活だ。いきなり一緒に湯浴みと言われても困る。  私が固まっていると、桃矢様はくすくすと笑った。 「たしかいろりさんは昔は長屋暮らしでしたね」 「あ、はい……」 「おそらくは、銭湯に通っていて、からすの行水が常だったのでは? 自分がいろりさんの髪を洗いますよ。よろしいですか?」 「……っ、そりゃ洗ってくれるんでしたらかまいませんけど、でも……」  未だに夫婦らしいことをしていないのに、一緒に湯浴みは未だに抵抗がある。私がもじもじしている中、桃矢様は私の髪に指を滑らせていた。  本当に特に手入れもしていない、油も差していない髪。元々女中として奉公していたときだって、匂いが付いたら駄目だろうと使っていなかった髪。桃矢様が指で梳いてくれると気持ちよく、それでいて取り立てて面白みのない髪でごめんなさいと思う。  桃矢様はにこやかに言った。 「あなたが今まで自分たちにやってくれたこと、よく覚えていますから。だから父との話し合いが終わったら、今度はふたりで出かけましょう。あなたに渡したいものがあるんです」 「……あの、桃矢様……お体は」 「不思議ですね。毎年夏になったら本当に物が食べられなくって、重湯しか口にしてなかったというのに。今年はよく物が食べられるんです……だから歩いていても苦しくならないんですよ。あなたがいてくれるからかもしれませんね」  その言葉にきゅんと胸が疼いた。  ようやっと私の髪から指を離した彼に対して、「桃矢様」と私はボスリと彼の胸の中に飛び込んだ。桃矢様は珍しく少し狼狽えたように、ビクッと肩を跳ねさせて固まった。 「……いろりさん?」 「……お慕いしています」 「えっと、はい。嬉しいです」 「出かけるのも楽しみにしていますが、先に当主様とお話し致しましょうね」 「ええ、そうですね」  最近は暑くなってきたせいで、蚊帳を部屋にかけて、戸を全開にして寝ている。それでも暑いものは暑い。薄布団だけをかぶり、抱き合って眠っていたら当然ながら寝苦しいはずなのに。  桃矢様の低い体温、桃矢様の匂い、桃矢様の鼓動の音。  そこに安心して、私はコロリと眠ってしまった。  最初は固まっていた彼が、私の頬に手を伸ばして、ずっとなで続けていたのも、理由だったのかもしれない。 ****  その日、私は久々に洋服に袖を通していた。  半袖のパフスリーブのドレスは、女中奉公中にこれを着てエプロンを巻いて仕事をしていた。今日は一日動き回る予定なため、頼んで用意してもらったものだった。最近はずっと着物を着ていたけれど、正直動き回るときにはこちらのほうが動きやすい。  私のドレスに着替える様を、桃矢様はポカンと眺めていたのに、私はおずおずと尋ねた。 「あのう、桃矢様。もしかして私の格好、お気に召しませんでしたか?」 「いえ……いろりさんの洋装がすごくお似合いでしたので、意外でした。夏場は暑いですし、涼しい格好のほうが過ごしやすいと思います」 「ま、まあ……」  普段から桃矢様は私の食事についてはいろいろ褒めてはくれるものの、格好を見て褒めてくれることは滅多にない。その手のことは無頓着なんだろうと思っていたから、こうやって褒めてもらえるのは新鮮だった。  髪もひとつに結んで簪をひと差しして留めると「やるぞー」と気合いを入れる。  まずは食事会のための模様替えだ。  当主様を離れに招待するため、私は奉公人さんたちに頼んで家具の移動をしていた。  さすがに畳み張りの部屋を本邸のように洋風に完全模様替えは一日ではできる訳もなく、長机を持ってくる、座椅子を並べるに留まった。  料理はビーフシチューと一緒に夏野菜の洋風漬物、パン。飲み物は白ワインを用意した。 「花、これで大丈夫ですか?」 「ありがとうございます、彼方さん。綺麗な花」  庭の花を生けてもらい、それを長机の中央に飾ってもらった。鮮やかな花は私の知るものではなく、ただ夏場でもその瑞々しい花が咲くんだなと感激した。 「それで当主様は……」 「早朝のお勤めが終わったら、こちらに向かうそうですよ」 「今日は休暇を取ったと伺いましたが、それでもあるんですね」 「最近は帝都も開発工事が多いせいで、どうしても現場に行かないといけない案件が多いですから、こればっかりはどうしようもなく。桃矢様だってほぼ休みなく庭でお勤めをなさっているでしょう? それと同じです」 「そうですね……」  風水師が気の淀みを鎮めているなんてこと、普通に暮らしていたらわからないし気付かない。そもそも風水のために家具の場所や立地条件をどうこうするなんてこと、一般庶民が理解できるはずもない。  つくづく大変な仕事なんだなと思わずにはいられない中、「奥様」と女中さんからも声をかけられた。 「それではそろそろ旦那様もお戻りの頃ですし、食事に日をかけてもよろしいですか?」 「はい、お願いします」  夏場だから、傷みやすい素材はなるべく使いたくないし、調理時間の調整には手間取ったものの、何度も皆で練習したからなんとかできるようになった。  食器を並べ、グラスを並べ、いよいよというところで。スタスタという足音が響いてきた。 「奥様、失礼します。旦那様が起こしです」 「はい。当主様。今回はこちらの招待お受けしてくださりありがとうございます」  私はペコリと挨拶をした。  その日の当主様は珍しく、いつもだったら狩衣だというのに、着てきたのは夏らしい着流しだった。いつも夏場は暑そうだと思っていたから、こうして涼しい格好をして来てくれるとほっとする。  当主様はペコリと会釈をした。 「今回はお招き誠に感謝する」 「はい、どうぞそちらにお座りくださいませ。今食前酒をお出ししますから」 「……食前酒。息子は飲めるようになったのか?」  それに私は目を瞬かせた。  そういえば。桃矢様は最近は食事の量は少なくても毎日三食食べれるようになったし、調子のいいときであったら、お酒も嗜むようになったことを、当主様は全く顔を合わせていないから知らなかったんだ。 「桃矢様はお加減がよろしいときは何でも召し上がりますし、何でも飲みますよ。大昔奉公先で偏食な方々とお会いしたことがございますが、桃矢様はなんでも召し上がってくださいますので助かっています」 「そうか……」  そう言って視線を落とす中、食前酒の白ワインと、先にいただく夏野菜の洋風漬物が届いた。ピクルスと言うらしく、夏野菜を香辛料と葡萄酒、酢に漬け込むそれは、白ワインと程よく合う。  その組み合わせを見て、桃矢様は嬉しそうにピクルスを食べはじめた。  今のところ、ふたりは顔すら合わさず、静かに食事をしているけれど。私は桃矢様と当主様の視線をつぶさに観察していた。  桃矢様はできる限り当主様の視線を避けるように、静かに食事をしている。それに対して、当主様はずっと桃矢様を見ているのだ。  遠くから見守っていただろうに。ちゃんと見ていただろうに。それでも、桃矢様がなにが好きでなにが嫌いか、この人は知らないのだ。  それは亡くなられた奥様の件が原因とはわかってはいるものの、それは悲しいように思える。  私が思わず目を伏せつつ、本邸の台所へと向かった。  夏用ビーフシチューが出来上がり、それを持っていく。 「お待たせしました。ビーフシチューになります」 「……これは」  当主様は私の持ってきたものを見て、目を見張った。 「当主様?」 「……あなたは、仏蘭西料理をご存じか?」 「申し訳ございません。私は実家の都合で外食はほぼ食べたことがございませんので……」 「これは、プロヴァンス地方の料理だよ」  そうなんですか?  私は思わず一緒に配膳を手伝ってくれた女中さんたちのほうに振り返ったものの、女中さんたちは一斉に首を振っていた。どうも私はビーフシチューをつくったつもりで、仏蘭西の郷土料理をつくってしまっていたらしい。  しかも当主様はなにか反応している。  ふいに。 「父さんはたしか、当主を継ぐまでの間は大学で仏蘭西文学を学んでいましたね? 母さんと一緒に洋食屋巡りをしていたのも、仕事の関係上留学が難しいから、せめて料理だけでも知りたかったと」 「その話は……」 「直から聞きました」  桃矢様は当主様を話題にするとき、いつもどこか悲しげだったり苦々しかったりしたものを浮かべていたけれど、今は違う。  どこかほっとした顔をしていた。  そしていつもだったらあれだけ厳格な雰囲気を保っている当主様が、珍しく普通の寡夫に見えてしまう。 「父さん、どうか母さんの思い出を教えてください。直からの話だけでは、どれが本当か嘘かわかりませんから」 「……そこまで、面白い話でもないが」 「でも自分は母さんのこと、本当になにも知りませんから」  このふたりの会話は、終始たどたどしく、どこかよそよそしかった上に、いつもどこかでぶつ切りになってしまう。ただそのたびにまた別の話題が出てくる、不思議な会話だった。 「私……ちゃんとおふたりの会話ができるよう、できたんでしょうか?」  ぽつんと漏らした言葉に、執事さんは丸眼鏡越しに目を細めて微笑んだ。 「奥様は頑張られたと思いますよ」 「そう、だといいんですけど」  ちりんとどこかの軒先の風鈴の音を聞いた、そんな気がした。
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